北里大学

農医連携教育研究センター 研究ブランディング事業

13号

情報:農と環境と医療13号

2006/5/1
北里大学におけるチーム医療教育の実施:試行プログラム
北里大学では、平成18年度から学部および学部・大学病院間の教育連携によるチーム医療教育プログラムを創設した。

対象とする医療系4学部(医学部、看護学部、医療衛生学部、薬学部)の学生に、他の医療職種の知識や技術、さらに患者の接遇の仕方などを理解させ、職種間の相互理解と連携をめざし、共同できる能力や患者を総合的に診る能力を身につけさせるのが目的である。約900名の学生を、1チーム10名、10チームを1グループとし、9つのグループに分けたうえ、2日間にわたってオリエンテーションや、チームによる個別討論、ならびに総合討論などを行う。

「医療系4学部によるチーム医療の実践―安全で良質な医療の実現に向けて」をキャッチフレーズに掲げ、本年度の一般目標を次のように定めた。「医療上の問題を解決したり、患者を志向した質の高い医療の提供を目標に、チーム医療の構成員として自身の専門性を活かし積極的に医療に参画できるようになるために、医療の流れ、医療の構成員、チーム医療に関する基本的知識、技能、態度を習得する」

なお、本年度は試行プログラムとしての展開だが、将来は授業科目設定と単位認定を目指している。試行プログラムの期間・場所・対象学年は以下のとおり。

期間:平成18年5月1日(月)~2日(火)

場所:相模原キャンパス

対象学年:薬学部:4年生、医学部:5年生、看護学部:4年生、医療衛生学部:4年生(理学療法学専攻及び作業療法学専攻は3年生)
第1回 北里大学農医連携シンポジウム−農・環境・医療の連携を求めて−(5)千葉大学環境健康フィールド科学センターの理念と実践
平成18年3月10日に第1回北里大学農医連携シンポジウム‐農・環境・医療の連携を求めて‐が開催された。副題を「現代社会における食・環境・健康」に設定している。(1)医学から農医連携を考える(北里大学教授:相澤好治)、(2)東洋医学と園芸療法の融合(千葉大学助教授:喜多敏明)、(3)食農と環境を考える(東京農大教授:進士五十八)および(4)人間の健康と機能性食品(日本大学教授:春見隆文)の講演内容は、すでに「情報:農と環境と医療 11・12号」に紹介した。今回は、千葉大学学長の古在豊樹教授による「千葉大学環境健康フィールド科学センターの理念と実践」を紹介する。なお、シンポジウムの映像音声と資料画像は、本学ホームページ(http://www.kitasato-u.ac.jp/)で見ることができる。

1.はじめに ‐現代都市における各種ストレス‐

現代社会、特に、先端技術が装備された人口過密な都市の住民は種々の心理ストレスと環境ストレスに直面している。心理ストレスは、生きがい喪失、ふれあい喪失、ひきこもり、ニート(未就学、未就職、かつ未研修)、うつ症状などを引き起こしがちである。また環境ストレスは、廃棄物の増大、環境汚染、自然喪失、資源枯渇などとして現れている。そして、これらの現象は、社会規範(ルール)崩壊、犯罪増加、貧困層の拡大、競争・競合の激化などに関連している。

さらに、少子高齢化の進んだ国においては、医療費・税金の増大などが、上記問題をさらに複雑化させている。これらストレス間の相互関係は複雑であり、各ストレスの解消を1つずつ図るのではなく、これらストレス発生の根源を見極めて、その根源を解消する対策を実施することが求められている。

2.問題解決のキーワード ‐ 東洋思想・文化と園芸・植物 ‐

上述の諸問題・諸ストレスが世界的に広がり、また深刻度を増すにしたがって、世界各国から、それぞれの問題の解決を目指す概念や方法論がいくつも提案されている。それらの提案・方法の中でしばしば使用されるキーワードは、共生、循環、環境・地球にやさしい、持続可能な発展(サステナブル・ディベロップメント)、省資源、自然回帰、スローライフ、生きがい・ふれあい創出、協働、安心と安全、知的価値創造、スローフード、もったいない、ほっとけない、などである。本センターでは、上記キーワードに、園芸・植物および東洋思想・文化をキーワードに加えた(図1)。

図1 心身の健康及び環境保全。省資源・安心・安全を同時に実現するための東洋思想・園芸・植物の導入

3.理念と目標

設立当初に掲げたセンターの理念は、以下のように箇条書きされている。1)高齢者・子供・弱者・次世代が健康になる環境の創造、2)心身一如の健康、福祉、介護、教育、生産を実現する共生社会の創造、3)自然治癒力・生命力を活かした健康、ならびに省資源、環境保全、物質循環、文化創造、生物生産、園芸作業、およびそれらを体験する喜びの実現、4)地域交流・産業交流にもとづく実践的研究教育および人材育成。

4.センターの研究課題

発足した当時に考えられたセンターの主な研究課題は以下の7つであった。1)東洋医学的治療・介護への植物・自然とのふれあい効果の導入ならびに健康予防医学、環境教育、園芸療法の実践、2)介護・リハビリ・植物生産などの施設・設備のユニバーサル・デザインとその利用、3)作業者の生きがい創出と健康増進を重視した植物生産システムの開発、4)植物生産・資源循環を取り入れた環境園芸都市における省資源と環境保全、5)健康機能植物の増殖・生産・育成・活用、6)先端的技術も取り入れた省資源・環境保全的都市型環境園芸システムと植物品種の開発、7)上述の理念・目的を実現するための環境政策、福祉・介護政策、環境会計の統合。

上記研究課題の必要性は以前から大方の人に理解されていたと考えられる。しかしながら、上記研究を進めるには、1)専門分野を超えた密接な共同が必要、2)因果関係を実験的に明らかにするための研究手法が明確でないので、事例調査に終わり、明確な証拠(エビデンス)あるいは因果関係を明らかにしにくい、3)実験・調査に少なくとも数年間を必要とする、4)研究成果の見通しがつきにくいので研究費を得にくい、などの理由で、関係者の研究課題から遠ざけられてきた。

5.センターの組織・場所・施設

1)組織と場所

センターは園芸学部附属農場の組織を、大学の共同教育研究施設の組織として拡充・転換して平成15年4月に設置された。設置場所は千葉県柏市柏の葉地区であり、面積は17ヘクタールである。柏の葉のセンター敷地内には、本館、講義棟、柏の葉診療所、小規模な畑、果樹園、温室、加工室などが点在している。

専任教員15名、農場技師10名、常勤事務職員3名、非常勤事務職員数名、兼務教員約50名などからなる。専任教員15名は、園芸学部から6名、附属農場から3名、医学部から2名、教育学部から2名、薬学部から1名の移籍である。漢方治療を行う専任教員1名は富山医科薬科大学からの異動である。このような真に領域横断的な研究センターは、日本はもとより世界的にも他にはほとんど存在しないであろう。

このセンターの正門は、2005年8月24日に開業した鉄道、「つくばエクスプレス」の柏の葉キャンパス駅の西側300メートルの位置にある。終点の「秋葉原駅」と「つくば駅」のほぼ中間に位置し、どちらからも約25分の距離にある。駅前西側の約10ヘクタールは今のところ更地であり、現在、環境、健康、東洋医学、園芸をキーワードにした駅前まちづくりの計画が進んでいる。

2)柏の葉診療所

センター設置14ヶ月後の2004年6月に、東洋医学診療を目的とした、柏の葉診療所を、緑に囲まれたセンター内に床面積500 m2の平屋建てとして開院した。建物内には、診察室の他に、待合室、薬局、園芸療法室、浴室などがある。園芸療法室の南側には薬草園を兼ねた園芸療法庭園があり、予防とケアを重視した環境と人間の共生研究を推進している。

図2 予防とケアを重視した環境と人間の共生研究を推進する

3)ケミレスハウス・タウンモデル(シックハウス症候群療養施設)

次世代のための街づくりを実現するため、センターのキャンパス内にモデルタウンを2006年に建設し、シックハウス症候群に関する環境改善型予防医学研究を行う。

柏の葉診療所の分室として環境医学診療科を設置し、(1)住宅のモデル (戸建住宅、アパート、マンション) を用いたシックハウス症候群への対応、(2)住宅の化学物質低減化研究、(3)建材・家具・家電・自動車等の調査・評価・低減研究、(4)専門家の育成などを行う。

6.取組中の研究課題例 

1)東洋医学診療と園芸療法の融合

園芸療法とは、園芸作業を通じて人間の心と身体に機能を改善することを目的とした療法である。園芸作業は身体機能を無理なく改善するだけでなく、心をさわやかにし、どこか救われた気分になり、気持ちを前向きにさせることが経験的に知られている。この経験を、医師、薬剤師、看護師、園芸家、教育家が共同して療法として体系化するのが、センターの研究課題の1つである(喜多ら、2004, 2005; 野田,2005)。

さらには、この園芸療法を東洋医学診療と融合して、心身機能の向上を相乗的に図るプログラムを開発する研究が開始されている。これらの研究は2004年夏に開始され、2005年8月にはセンターの第一段階の研究成果として公開発表されるまでに至った(野田、2005)。将来的には、芳香療法(アロマテラピー)、鍼灸治療、森林浴、さらには西洋医学などとの融合・補完も目指していく予定である。

2)ロハスなまちづくり

センターの柏の葉キャンパス・デザインならびにキャンパス周辺のまちづくりに関して、センターの理念と目標に相応しいものを実現しようとの構想がセンター発足時からもたれた。心と環境の時代に相応しい柏の葉キャンパスとするために、1)千葉大学の総力を結集する、2)広域的視野でキャンパスを位置付ける、3)環境・健康を最優先する、ことに留意してデザインし、他方、4)収益性も考えることにした。

さらに、柏の葉キャンパス駅前のまちづくりに関しては、ロハス(LOHAS、Lifestyles of Health and Sustainability、健康と持続可能な発展を優先した生活スタイル)の思想を取り入れることにした。ロハスを実践する生活創造者は、1)環境にやさしい生活を心がけている、2)持続可能な経済の実現を願っている、3)薬にたよらず、病気予防を心がけ、健康な生活を目指している、4)自己実現に力を入れている、を特徴とする。

柏の葉キャンパス駅前からセンターを横断し、柏の葉公園に至る約1キロメートルの道の両側を八重桜並木とし、また駅前およびその周辺には、薬膳レストラン、漢方薬局、健康食品、市民農園、鍼灸院、無農薬野菜店、園芸療法を取り入れた介護施設・老人ホームなどが計画・提案されている(図3)。

図3 柏の葉キャンパス駅前のショッピングエリアのイメージ

3)閉鎖型システムを用いた薬用植物生産

先進国の高齢化、アジア諸国、特に中国の経済成長、および世界的な健康志向により漢方薬需要が年々増大しているが、自生植物の乱獲により、現存量が大幅に減少し、自然保護と生産量増大の必要から、栽培システムの開発が期待されている。以上のことから、薬用植物の生長量と薬効成分濃度を高める栽培技術を開発し、さらには、生長量、薬効成分濃度、病害抵抗性などに関して遺伝的に優れた品種を育成し、その品種を登録することは、今後の漢方薬健康ビジネスにおいて重要な課題である。

上述の背景から、今後、薬用植物をその主たる消費国において施設栽培する方向が考えられる。その可能性の1つとして、センターでは、閉鎖型システムによる薬用植物生産を検討している。閉鎖型システムの特徴は、1)光に不透明な断熱壁で囲われている、2)人工光源のみを使用する、3)換気は最小限に抑える、4)システム内外の物質の出入りを最小限に抑える、である(古在ら、2005;http://phdsamj.ac.affrc.go.jp/topic/5_2.html)。

閉鎖型システムで薬用植物を生産する利点としては、(1)外界気象に影響されずに植物生産が可能である、(2)かん水量(排水量)、肥料、CO2施用量を節約できて、省資源的、環境保全的である、(3)害虫が付かないので農薬が不用である、(4)生産量当たりの設備費および運転費は温室と同等以下である、(5)作業面積が1/10程度になり省力的、省スペース的である、(6)環境が好適に制御されているので、成長速度が速く、また薬効成分濃度が高くなる、(7)昆虫、病原菌、残留農薬、塵埃などの夾雑物が混入していないので高品質である、(8)優良な親木から栄養(挿し木)繁殖した苗を用いる場合は、遺伝的性質が優良で均一、などである。

現在、セイヨウオトギリソウ(St. John's wort, Hypericum perforatum L.) (Mosaleeyanon, et al., 2005)、甘草(Glycyrrhiza uralensis)などに関して、上記の利点を示す研究成果が得られている。

7.社会連携活動

1)環境健康講演会

センターと地域住民との連携を深めるために、講演会用教室(シーズホール)が完成した2004年2月から「環境健康講演会」を主に週末に開始した(企画・運営責任者:センター専任教員の野田勝二・塚越覚)。この講演会の講師は主にはセンター専任教員が勤めたが、講演題目によっては、センター兼任教員あるいは外部講師に依頼した。2005年秋月までに26回開催されている。

2)環境健康ビジネスフォーラム

「環境健康ビジネスフォーラム」は、主に、企業と自治体関係者を対象に、情報交換・意見交換を目的に、2004年5月から12月までに8回開催された。最初の3回は、趣旨説明と参加者同士の自己紹介を行った。その後は以下のテーマを決めて話題提供と討論を行った(1)「東洋医学診療の現状と将来-自然と調和した医療の実践-」,(2)閉鎖型植物生産システム、(3)柏の葉キャンパスとまちづくり、(4)園芸療法の概要とその取り組み、(5)微量化学物質の簡易測定法開発。参加者は毎回70名~150名であった。

3)千緑会―ボランティア活動団体

千緑会の活動は、ほぼ毎月開催されている市民公開の「環境健康講演会」の運営や園芸療法庭園用植物の栽培および作物収穫の支援など多岐にわたっている。センターの園芸療法に関する実験などにも支援参加している。千緑会のメンバーは元気で畑仕事が好きな人がほとんどであり、センターの活動を支えていることに喜びを見出している。公的研究教育機関を支える社会貢献、ボランティア活動の今後のモデルの1つとなると考えられる。

8.おわりに

環境健康フィールド科学センターにおける教育研究活動および社会貢献は決して先端的なものではない。むしろ、先端的なものからこぼれ落ちたが、現代の社会が必要としている重要な課題に、効率を第一とせず、着実な問題解決を第一として、取り組んでいる。このセンターの取り組みが、心と環境の時代である21世紀の社会の福祉に貢献し、世界に広がっていくことを強く願っている。

引用文献
  1. 喜多敏明.2004. 千葉大学から発信するこれからの漢方医療‐環境健康フィールド科学センターの役割‐. 千葉漢方ルネッサンス.九段社、福島, 10-31.
  2. 喜多敏明. 2005. 柏の葉診療所活動報告、千葉大学環境健康フィールド科学センター成果発表会資料集、千葉大学けやき会館(8月29日)、44-53.
  3. 古在豊樹ら. 2005. 最新の苗生産実用技術、農業電化協会、150pp.
  4. 野田勝二. 2005. エビデンスに基づく園芸療法~その第一歩~、千葉大学環境健康フィールド科学センター成果発表会資料集、千葉大学けやき会館(8月29日)、2-9.
  5. 千葉大学 環境健康フィールド科学センター. 2005. 園芸療法の科学的解明と健康福祉ビジネスへの適用(平成16年度 千葉県新産業ソーイング事業報告書)、40pp.
  6. Mosaleeyanon, K., S.M.A. Zobayed, F. Afreen, and T. Kozai. 2005. Relationships between net photosynthetic rate and secondary metabolite contents in St. John's wort, Plant Science, 169: 523-531.
第1回 北里大学農医連携シンポジウム−農・環境・医療の連携を求めて− (6)農・環境・医療の連携の必要性
前項に続いて、北里大学の陽 捷行教授による「農・環境・医療の連携の必要性」を紹介する。

はじめに

大量生産と経済効率をめざした農業は、農地に化学肥料、農薬および化学資材を加え、集約的なシステムへと変わった。その結果、増加しつつある人口に多くの食料を提供することができた。一方、大量生産のために投与された膨大な資源とエネルギーは、重金属汚染にみられる点的な、あるいは窒素やリンによる河川や湖沼の富栄養化にみられる面的な、またメタンや亜酸化窒素による温暖化にみられる空間的な環境問題を起こした。さらに最近では、ダイオキシンのような世代という時間を超えた環境問題を生じせしめ、人間の健康と地球の環境に多くの問題点をもたらした。

医学においては、微生物学、免疫学、臨床医学、薬学などが発展するなかで、栄養学の進歩とともに多くのひとびとが病気を克服することができ、健康の増進に励むことができた。一方、そのために発明・発見されたさまざまな化学物質による薬原病などの問題が浮上し、臨床医学をさらに進化させることへの洞察が生まれた。さらには、「人の癒し」などについても未解決な問題が残されている。

21世紀の予防医学が掲げる目標には、リスク評価・管理・コミュニケーション、疾病の発生予防、健康の質の増進などの課題がある。これらの医学分野における課題と、農学分野がどのように連携できるかという現代的な問題の解決に取り組むことは、社会の要請に応えるうえで極めて重要である。

20世紀の技術知が生んだ結果は、われわれが生きていく21世紀の世界に、農医連携の科学や教育が必要不可欠であることを示唆している。病気の予防、健康の増進、安全な食品、環境を保全する農業、癒しの農などのために、すなわちひとびとが心身ともに幸せになるために、農医連携の科学や教育の必要性は強調されてもされすぎることはないであろう。医食同源という言葉があるにもかかわらず、これまで農医連携の科学や教育はそれほど強調されなかったように思われる。

今の世のなかの大きな問題の一つに「分離の病」がある。人と人の絆がり、生徒と先生の絆がり、土や自然と人の係がり、事実と事実の縛がり、文化・歴史と現在の維がりなど、枚挙に暇がない。「分離の病」は、「知と知の分離」、「知と行の分離」、「知と情の分離」および「過去知と現在知の分離」に整理できる。これら「分離の病」は、農と医の間にも存在する。分離の病を克服するためにも、俯瞰的で総合的な視点に立った農医連携の研究や教育の必要性が強調されなければならない。

1.世界の動向

「農医連携」という言葉は、生命科学全般を思考する北里大学で新しく使用しはじめたものである。それに相当する英語の概念として、例えばAgromedicine がある。1988年に設立された The North American Agromedicine Consortium (NAAC) は、Journal of Agromedicineという雑誌とニュースレターを刊行している。他にもいくつかの例があるが、紙数の関係で省略する。ここでは、「農医連携」に関わる現在の国際的な動向をいくつか示し、その潮流を追ってみる。

1)国際窒素戦略:INI (International Nitrogen Initiative)

ハーバー・ボッシュ法により大気の窒素が固定され始めて、100年の歳月が経過した。今では、年間270Tg(1012g)の窒素(N)が地球上に固定されている。この過剰固定窒素は、地下水の硝酸汚染、富栄養化、オゾン層破壊、温暖化、ブルーベビー、硝酸汚染作物・動物、人体への健康影響など、地球環境と人間環境にきわめて大きな影響を与え始めた。過剰窒素が人間の健康に及ぼす影響を解明するとともに、早急にその対策を確立しなければならない。過剰窒素による食から環境から医に関連した研究が必要になる。そのため国際窒素戦略(INI)が提唱されている。(参照:http://www.initrogen.org/)

2)ニュートリゲノミクス:NuGO (Nutrigenomics Organization)

食品由来成分が遺伝子発現・制御に及ぼす影響を研究する学問分野である。今回の春見隆文日本大学教授の講演に詳しい。融合分野の研究がいまほど必要とされているときはない。ニュートリゲノミクスがその一つである。健康と半健康と病気を食から評価・判断するもので、あらゆる食料を基盤に、ゲノム科学、コンピュータ科学、疫学、病理学、農学、海洋学、環境科学、分析化学、生命科学などが連携しこれにあたる。農学を基盤とした医学につながる融合科学である。

3)残留性有機汚染物質:POPs (Persistent Organic Pollutants)

残留性有機汚染物質(POPs: Persistent Organic Pollutants)と呼ばれる物質で、ヒトや環境への毒性が強く、環境中で分解しがたく、そのうえ生物に濃縮される。これらの物質は大気・土・水・生物を介して移動し、生産される食品を汚染する。現在、POPs条約の対象になっている物質はアルドリンをはじめ12種ある。(参照:http://www.pops.int/)

4)コーデックス:Codex (Codex Alimentarius)

FAO/WHOの合同食品規格委員会(Codex)は、消費者の健康の保護、食品の公正な貿易の確保などを目的として国際食品規格の作成などを行っている。例えば、特別部会の「バイオテクノロジー応用食品(日本担当)」では、遺伝子組換え動物由来食品の消費によるヒトの健康への潜在的リスク、栄養または健康に資する組換えDNA植物由来食品、遺伝子組換え食品の混入、医薬品成分または生理活性物質を含む組換え植物由来食品などの課題がある。

5)地球環境変動と人間の健康:GECAHH (Global Environmental Change and Human Health)

IGBP(International Geosphere-Biosphere Programme:地球圏-生物圏国際共同研究計画)の組織のなかに、ESSP(Earth System Science Partnership:地球システム科学パートナーシップ)がある。ESSPの活動の一つに共同プロジェクトがある。そのプロジェクトの一つに、GECAHH(Global Environmental Change and Human Health:地球環境変動と人間の健康)がある。ここでも、農と環境と医療の連携の必要性が強調される。(参照:

6)鳥インフルエンザ:AIV(Avian Influenza Virus)

自然界において、これまでAIVは水禽類やシギやチドリの間で保存されてきた。しかし、われわれが創出した国際商取引、養鶏の産業化などによりウイルスの生態系、分布域、宿主範囲および病原性などが大きく変化した。ペット野鳥の国際流通、水禽類農場、屋外飼育農場、生鳥の流通販売、愛玩鶏・闘鶏の流通、養鶏場の大規模化などが、その例である。WHOによると、鳥インフルエンザ(H5N1)のヒトへの感染は2006年1月22日現在、6カ国163人、死者は半数の81人を数える。(参照、北里大学学長室通信、情報:農と環境と医療8号の2-11p)

2.国内の動向

1)千葉大学:環境健康フィールド科学センター

今回の古在豊樹千葉大学学長の講演に詳しいので省略する。(参照、情報:農と環境と医療1号の10-12p、2号の4-5p)

2)島根大学:健康長寿社会を創出するための医工農連携プロジェクト

島根大学では「医工農」を連携する研究を目指している。医工農が連携して、健康長寿社会の構築をめざした「健康長寿社会を創出するための医工農連携プロジェクト‐新たな人体解析システムの確立と地域に根ざした機能性食品の開発‐」がそれである。すでに、報告書がある。(参照、情報:農と環境と医療8号の18-19p)

3)日本学術会議:7部制から3部制への移行

これまで、文学、法学、経済学、理学、工学、農学、医学の7部制に分かれていた学術会議は、第20期で従来の7部制(人文科学部門3部、自然科学部門4部)から、人文科学、生命科学、理学・工学の3部制に移行し、所管も総務大臣から内閣総理大臣に変わった。これまでの「理学」と「農学」と「医学」の領域が新しい「生命系」に変革した姿は、「農と環境と医療」の連携の必要性をも感じさせる。(参照、「学術の動向:2005.11」、「情報:農と環境と医療9号の3-4p」、「日本学術会議のホームページ:http://www.scj.go.jp/index.html)

4)動物介在活動と動物介在療法:AAT(Animal-Assisted Therapy) と AAA(Animal-Assisted Activity)、コンパニオン(伴侶)動物

「子どもの発達への影響」、「高齢者に対する影響」、「人間への生理学的効果」、「セラピーにおけるペットの役割」などがある。(参照、情報:農と環境と医療5号の8-15p)

5)平成17年度農業白書: 食の安全、健康・医療

農林水産省が総理大臣に毎年度提出する「農業白書」の平成17年度版「農業白書:食料・農業・農村をめぐる情勢と課題」には、新たに「食の安全及び消費者の信頼確保の取組:BSE、高病原性鳥インフルエンザ」、「健康・医療との関わり」、「食生活の改善」、「食育」、「食の安全確保の取組」、「健康や福祉に着目した農村の新たな取組」など食品の安全性(農)と健康(医)の連携の必要性が掲載される予定である。

3.農と医の類似性

農と医はかつて同根であった。そして現在でも類似した道を歩いている。歴史的にその類似性を整理してみる。

1)人類が儀式を知ったことは、墓所の遺跡から推定される。これによって、人びとに共同を必要とする「衛生」という医学作業の可能性が生まれた。農では、雨風などの災害を回避するための祈願の儀式を必要とした。これから共同を必要とする集団が生まれた。

2)文明の誕生が医を発展させた。農の発展が文明を起こし、文明の進展が農をさらに発達させる関係にあった。

3)長く人類の財産になる「ヒポクラテス医学」の概念が生まれた。病気は神秘的な出来事ではなく、経験と合理の方法で接近できる自然の過程だという概念である。穀類の中で、とくに古い歴史をもつコムギ・オオムギが自生から栽培によって合理的に生産できることを農は知った。

4)儒教と道教、仏教とヒンズー教、キリスト教とイスラム教などが誕生した。それらが物質面・精神面で医学に与えた影響は計り知れない。農業ではその頃、地中海農耕文化、サバンナ農耕文化、根栽農耕文化、新大陸農耕文化、稲作文化が誕生し農学に影響を与えた。

5)西欧ルネッサンスでは外科と解剖学が発達した。「生きた」生理学と解剖学が始まり、「病院医学」が開花した。ヨーロッパの農業では、圃場試験により三圃式や輪栽式農業が開発されていった。

6)産業革命は資本制下の労働者の生活・健康を悪化させ、公衆衛生学、社会医学の急速な発展を促した。産業革命で増えた都市労働力のための食糧は、輪作農業が支えた。地主階級によるノーフォーク式農法が広がっていった。

7)19世紀後半以降は、研究室医学が発達し、「疫病」の病因と予防に焦点が向けられた。生化学が分子生物学と合体し、生命過程に迫る有力な武器になった。農業では、化学肥料や農薬の製造が始まり農業生産は著しく高まった。さらに、分子生物学が旺盛になり、遺伝子組換え作物が造られた。

8)農学には代替農業、医学には代替医療がある。前者は、化学肥料や農薬を中心とした集約的な農業生産に対して、これを代替・補完する農法である。後者は、西洋医学を中心とした近代医療に対して、それを代替・補完する医療である。いずれも生命科学としての特徴が現れている。

9)21世紀に入って、医学はヒトゲノムの、農学はイネゲノムの塩基配列を解読する全作業を終了した。

4.農と医の共生

上述したように、農と医は生命科学として同根であるとともに、歴史的にも類似の道を歩んできた。また、「分離の病」にある現在の姿をみるにつけても、農と医が共生することが極めて重要である。以下に、考えられる農と医の共生の場をあげてみた(順不同)。

生理思想:総合的にヒトを見るホメオスタシス(生理的恒常性の維持)などの概念は、医と環境と農との連携なくしては進展しないであろう。

内分泌物:農が生産する食物に含まれるホルモンなどを医で活用する農医連携。

栄養・ビタミン:健全な肉体を維持するために、健全な農産物に含まれる数多くのビタミン類を適切に摂取するために、農医連携は欠かせない。

感染と人間:すでに、鳥インフルエンザウイルスのヒトへの感染のことは述べた。農医連携が極めて重要な分野である。

生化学と分子生物学:ヒトゲノムとイネゲノムとトリゲノムが解読された。これにより、今後、農と医の連携はさらに促進されるであろう。

環境汚染:重金属による環境汚染は、農作物の汚染につながり、その農作物を食したヒトは重金属の障害に苦しむ。イタイイタイ病や水俣病がよい例である。

薬用植物:薬用植物やハーブ類の栽培と利用、入院患者と薬草園との交流など、農業現場と医療の連携は癒しの面からもさらに農医連携が必要となる。

環境保全型農業生産物の活用:自給飼料100%で生産される安全な牛肉を、病院の患者用給食材料として利用するような農医連携は、土壌‐草地‐牛肉生産‐流通‐健全食品‐患者の栄養・健康システムを通した一例である。

機能性食品:食品のもつ潜在的な保健的機能性に着目し、農学と医学を連携させる研究は、将来性のある重要かつ緊急なもののひとつであろう。

動物介在療法など:動物とのふれあいを含め動物と医療のかかわり。(参照、北里大学学長室通信、情報:農と環境と医療5号の8-12p)

PET診断:悪性腫瘍の診断ばかりでなく、他にも様々な応用が考えられるPET(Position Em

ission Tomography)診断は、農と医が今後さらに連携できる技術である。

その他:例えば、北里環境科学センターのような、農・環境・医療のいずれにも活用できる分析技術の連携が将来ますます必要である。

おわりに

「道:Tao」の哲学者老子のものとされている古代中国の聖典「道徳経」の第十一章に次の文章がある。

「三十本の輻(や)が車輪の中心に集まる。その何もない空間から車輪のはたらきが生まれる。粘土をこねて容器ができる。その何もない空間から容器のはたらきが生まれる。ドアや窓は部屋をつくるために作られる。その何もない空間から部屋のはたらきが生まれる。これ故に、一つ一つのものとして、これらは有益な材料となる。何もないものとして作られることによって、それらは有用になるもののもとになる。」

これは、多様性を統合させるための根本的な原理を示している。別の表現をすれば、農と環境と医療、あるいは食と土・水と健康を連携させていくための神髄を語っているともとることができる。粘土の固まりや窓やドアは特殊性あるいは個別性を示している。そして、車輪、容器、部屋は多様性の統合を示している。例えば、今回のそれぞれの演者の内容は、粘土や窓に相当する。まだ、車輪や容器や部屋はできていない。突然、「農医連携」という部屋はできないのである。多くの方々の関心や協力や援助や努力によって、長い時間を経て、初めて「農医連携」の部屋ができていくものと考えている。今回のシンポジウムは、将来できるであろう部屋のドアとも考えられる。多くの方々がこのドアから入って、自由に「農医連携」の部屋を創作していただければよいと考えている。

今回のシンポジウムが、新たな「農医連携」の研究や教育の発信源となれば、これに勝る喜びはない。慎ましやかでも、「農医連携」の部屋ができることを期待したい。
第1回 北里大学農医連携シンポジウム−農・環境・医療の連携を求めて− (7)総合討論とアンケート結果
総合討論

総合討論は30分という短い時間であった。にもかかわらず、積極的な意見が会場から数多くでた。いずれも農医連携の必要性を前提にした貴重なものであった。13人の発言者と6人の演者の間での濃密な討論を以下にまとめた。

討論の内容は、教育、語源、政策、定義および連携課題に類別できた。教育に関しては、生産を踏まえた現場での実践とカリキュラム作成の必要性が求められた。語源では、農医か医農かの議論がなされた。これに関しては、医食同源やAgromedicineなどの言葉があること、またこの国では輪廻の概念があることなどから、どちらでもよかろうなどの意見が出た。

政策に関しては、WTOの問題や農の生産に及ぼす影響とが、農医連携の問題とどのように関わるかという質問が出た。これについては、残念ながら意見の交換や議論をする時間がなかった。続いて、例えば機能食品など言葉の定義の問題が出た。これについては、時間を掛けて熟成されるであろうとの意見があった。

最も多かった意見は連携課題であった。意見交換された連携課題のキーワードは、生産工程、化学物質、電磁波、自然循環機能、予防医学、倫理、過敏症、有機農業、医食同源、癒し、機能性食品などであった。いずれも、現在の社会において多くのひとびとが関心をもっている農医連携に必要な課題ばかりであった。

このように、さまざまな意見をいただいた。今後これらの意見を参照し、第2、3回の農医連携シンポジウムを開催する旨を約束し、シンポジウムは盛会のうちに幕を閉じた。

アンケート結果

回収したアンケートは、全体的評価と問題点、考え方、今後の方向などに類別して、以下のようにまとめてみた。

全体的評価と問題点:

挨拶、講演内容、総合討論のいずれも理解しやすく内容のあるものであった。司会、運営、レジメが充実しており参加して概ね有意義であった、などの評価をいただいた。全体の説明があってわかりやすく、聴く人の想像力をかき立てる良い企画であったとのお褒めの言葉もあった。さらに、今後の開催を希望する意見が多かった。

一方、専門外の人間にわかりにくい、資料が多すぎる、パワーポイントの資料がほしい、演者の考え方にばらつきがある、シンポジウムの方向性・基本的コンセプトが共有されていない、農の部分が弱い、農(陸)と医の連携では不十分でポッカリ穴があいているのに総合的と思っていたら大きな落とし穴に落ちる、環境に関する医の講師が足りない、などの問題点が指摘された。

農医連携の考え方:

時代は「連携」や「統合」にむかっている。そのために、技術の底辺を支える哲学・思想が重要である。また、専門分野の協力が不可欠である。新しい領域の連携が必要である。なかでも、医学・農学・工学の対話が必要である。そのとき、農・医対工業という単純化は危険がある、など。

農医連携を遂行するうえでの一般的な問題点が指摘された。医療分野の食や農に対する意識の低さがある。農と都市部や地域性の取り上げかたの検討が必要である。食育について各県で取り組む必要がある。食育と農業体験が不可欠である。食への医学分野からの必要性の勧誘がいる。農村部の農医連携に社会科学の連携が必要である。医療から農業の在り方を変革する具体的な支援が必要である。安藤昌益の哲学が重要である。感性のアップが必要である。都市住民と農業者の農と医療の融合が期待される。医療の従事者は増え、農の従事者が減るが、これをどうするか、など。

また、北里大学あるいは教育・学問の観点から次の問題が指摘された。生命科学の総合大学として学部・部門の連携が必要である。北里大学内での議論が不足している。農医連携中核センターが北里大学に必要である。総合化に向けた農・環境・医の意見交換の場と実践教育が必要である。医・農共同学会の設立を望む。研究費がつくことが必要である。一人の人による農・環境・医療の概論・総論が必要である。農と医の学生交流の場が必要である。大学を目指す高校生に分かりやすい啓蒙が必要である。

このような意見のもとに、最後は次のようにまとめることができる。挑発的活動に農医連携の発展を祈念する。社会全体がこの方向に動くための仕掛けや方法論が必要である。農医連携が社会全体を変える力になれ。農を守ることの重要性が強調される。そして、環境や農が予防医学の役を果たす時代が来ることを願う、など。

今後の方向

農医連携シンポジウムに関する今後の方向として最も多かった意見は、具体的な問題を早急に採りあげることであった。すでに総合討論のなかで提案されていたので、希望する問題の提示は少なかったが、園芸療法、医食同源の実証研究テーマ、食育では米の研究、食の安全性、環境のバロメーター昆虫、などが要望された。

最後に、社会に芽をだすため少なくとも10年がんばれという意見と、現場では求められていたものの、学問として成立させ、技術として社会に活用するシステムがいる、という意見には考えさせられるものがあった。

以上の総合討論とアンケート結果から、今後農医連携を進めていくうえで、さまざまな農医連携に関わる事象は、原論、教育、研究、普及、政策の面から思考することが必要であることを確認できた。また、今後とも農医連携に関するシンポジウムの開催が必要で、上述の思考のもとに様々な課題が数多くあることも確認できた。
本の紹介 16:感染症は世界史を動かす、岡田春恵著、ちくま新書 580(2006)
鳥インフルエンザによる死者が、106人(4月5日現在)に達した。世界保健機関(WHO)のこの報告は不気味である。日本も再上陸に備えた危機管理を怠れない。それが人から人へ感染する新型インフルエンザに変異すると、死者は数百万人に達する可能性があるという。

1918年から1919年にかけて、世界は新型インフルエンザ「スペインかぜ」に席巻された。この疫病による死亡者は、全世界で二千万人から四千万人とも八千万人とも言われていた。統計に入っていなかったアフリカなどの地域の犠牲者を加味すると、最近では八千万人から一億人と推定されている。日本でも三十八万人の犠牲者が出た。

その後、その子孫のウイルスはふつうの病原性にもどって、小さな連続変異をくり返しながら、インフルエンザとして39年間流行する。そして40年後の1957年、またしても新型インフルエンザ「アジアかぜ」として出現した。さらに、1968年には「香港かぜ」として世界を驚かせた。

この本の著者は、このような新型インフルエンザ対策の中枢で活躍するウイルス学者である。この本は、感染症の流行を歴史的視点から眺め、そこから得られる知見を新型インフルエンザ対策に反映しようとする、解りやすく説得力のあるものである。一言で言えば、疫病史が鳴らす現代の新型インフルエンザへの警告とも表現できるであろう。

この本は、「第一章:聖書に書かれた感染症」が導入部である。解説は、著者が感染症を研究するために滞在したドイツのマールブルクから始まる。この章の前半では、ハンガリー皇女のエリザベートが十三世紀にこの町でハンセン病の患者救済に立ち上がったことが紹介される。著者には、己も研究に打ち込むことによってエリザベートのように感染症の患者の救済に専心しようとする思いがある。

人類の長い歴史の中で、ハンセン病ほど不当な差別と社会的制裁を加えられた感染症はない。中世のハンセン病患者への想像に絶する扱いが、異端審問官コンラートの姿から容易に想像できる。ハンセン病患者は常に自分の存在を知らせるために、笛を吹くか木片を叩かなければならなかった、風下にいるときしか話せなかった、いかなる集まりにも出てはいけなかった、死んでも教会には埋葬されなかった、など死ぬまで差別に耐えなければならなかったのである。

ハンセン病はかつてレプラ(ラテン語のlepra)とよばれた、ライ菌がひきおこす慢性の感染病である。たいてい幼少期に感染し、成人になって発症する。潜伏期間が数年から、ときには20年以上と長いことから感染経路が同定されにくい。ライ菌は霊長類のチンパンジーなどにも自然感染があり、人獣共通感染症であること、さらに土壌中にもライ菌が存在していることなど多くの知見が紹介される。さらに、もともとはインドを中心とした熱帯地方の病気であることや、これがどのように全西洋に伝播したかのわかりやすい解説がなされ、感染病の恐ろしさが具体的に提示される。

「第二章:黒死病はくり返す?」と題して、中世の代表的な感染症ペストの歴史と悲劇が語られる。ハーメルンの笛吹き男、ユスティニアヌスの疫病、フィレンツェを襲ったペスト、腺ペストと肺ペスト、黒死病以前の世界、中世の生活様式、ペストという伝染病、ペストロード、キリスト教会の権威失墜、ミアズマ(瘴気)、ユダヤ人殺害、などを題材にペストの悲惨な現実が語られる。この中からペストに関わる二、三を紹介しよう

グリム兄弟の「ドイツ伝説集」に収められている「ハーメルンの笛吹き男」は、ペストの元凶であるネズミを小川に飛び込ませ殺す物語である。ハーメルンの人々は、この笛吹き男に約束の報酬を払わなかったため、男は再び舞い戻って笛を吹く。すると家から子供たちが出てきて、ネズミと同じように行進を始め、男の後について行き、二度と帰ることがなかった。子供の大量死の記載から、この伝説はペストに結び付けて考えられている。

ペストはどこから、どのような経路でヨーロッパにやってきたのであろうか。「飢餓のステップ地帯」という異名をもつ中央アジアのタジキスタンで、異常に高い致死率を示す疫病が、1338年に流行り始めた。この疫病がペストと考えられた。

モンゴル系遊牧民の移動に伴って、ペストはパミール高原を南下し、シルクロードを経て中国に到達。一方、ペストの西進はシルクロードと河川交易路があった。ひとつは、東方の交易都市のサマルカンドから、アムダリア川に沿って西進し、カスピ海をかすめ、タブリーズ(イラン)を経てトラブゾン(トルコ)に到着する。トラブゾンは黒海に面した港で、イタリアの交易都市ジュノヴァの植民地であった。この港からペスト菌も船出した。もうひとつは、タシケントからシルダリア川沿いにアラル海に達し、さらに西に向かって、カスピ海に面したアストラハンに到着する。そしてドン川の交易水系に沿って、タナを経て黒海の港カッファに着く。

ペストがカッファに達したとき、ヨーロッパ世界を席巻する黒死病蔓延の口火が切られたのである。このペスト菌の発見こそが、コッホの弟子のわれらが北里柴三郎と、パスツールの弟子のイエルサンであったことは、あまりにも有名な話である。

「第三章:ルネッサンスが梅毒を生んだ」と題して、急性で激烈な感染症が語られる。梅毒はスピロヘータ科のTreponema pallidumua という細菌によって起こされ、性交渉を介して伝染する性感染症である。

この病気に罹ると、鼻や咽頭、口の組織に欠損が現れる。骨に腫瘤ができ、神経も冒されて恐ろしい痛みを伴う。顔の形相が変わり、やがて死が訪れる。まさに地獄の責め苦にあう感染症であった。

梅毒の悲劇は、梅毒の進行、中世からルネッサンスの性風俗、コロンブスの持ち帰った風土病、ハルル八世のイタリア戦争、水銀療法、パラケルスス、ピューリタン革命、梅毒の芸術家、モーパッサンとハイネ、ニーチェ、デカダン、ネオサルバルサンを発見した日本人、現在の梅毒などの項目で解説される。

清教徒(ピューリタン)が性行動を慎み、夫婦制度を強化し、人々の中に純潔教育を施した背景に、この梅毒という感染症が厳然としてあったこと、シューベルトが「未完成交響曲」の作曲に着手した25歳の頃、すでに梅毒の症状が出始め、この曲が未完に終わったこと、モーパッサンが「女の一生」を世に出す数年前、頭痛と幻覚と被害妄想にさいなまれたのも梅毒の兆候があったこと、ドイツの偉大な詩人、ハイネもゲッチンゲン大学の学生時代に梅毒に冒されていたこと、哲学者のニーチェすら梅毒でバーゼルの精神病院に送られたこと、など数多くの事例は、梅毒という感染症がいかに人類を蝕んだかを如実に示してくれる。

このように、それぞれの文明や社会には、その時代に直結するような疫病があった。このような疫病からの苦難を経て、人類は公衆衛生の思想を確立していった。「第四章:公衆衛生の誕生」には、検疫のはじまり、保健所の設立と家屋の封じ込め、パスポートの原型、中世の医療、聖ヨハネ施療院とエギン会修道院、捨児養育院、ギルドによる慈善の精神なる項目が設けられ、公衆衛生の歴史が語られる。

「第五章:産業革命と結核」である。結核菌はマイコバクテリウム属で、ハンセン病を起こすライ菌の類縁にあたる。厳密には「結核」は、結核菌(人型結核菌)、牛型(牛型結核菌)、アフリカヌス菌などの数種のどれかによって起こる。結核菌を発見し、これを感染症と正確に証明したのも、かのコッホである。

古くからあった結核、結核菌とコッホ、ストレプトマイシン、結核のロマン化、チェーホフの結核、樋口一葉、正岡子規、産業革命の精神、産業革命と結核蔓延、レースのボレロ、下水と飲み水、日本の産業革命と結核、予防対策と結核患者数の推移、結核の現在、などの項目を掲げ、結核の歴史とその恐ろしさを解説する。

このように著者は、ハンセン病、中世黒死病の悲劇、ルネサンス期の梅毒の流行、産業革命にともなう結核の蔓延など感染症が社会に与える影響とその救済の必要性を説き、感染症の流行が社会や文化に多大な影響を及ぼしてきた様を詳細に述べる。そして、この病は一見社会から消えうせたようにみられる。

だが、現代にも感染症の危機は潜んでいた。それは新型インフルエンザの流行である。著者は疫病流行の痛みを忘れ、公衆衛生思想が希薄となってしまった現代社会に警鐘を鳴らす。それが、「第六章:新型インフルエンザの脅威」「第七章:二十一世紀の疾病」である。

わが国の厚生労働省は「新型インフルエンザ対策行動計画」を昨年の11月に発表した。しかし、現在世界の各地で蔓延を続ける鳥インフルエンザが、新型に変異した場合、政府の予想を上回る甚大な被害を起こす可能性があるというのである。われらは、今こそ疫病の流行を想起し、それに基づいた対策を打ち立てなければならないのである。

ブッシュ米大統領は、昨年の9月に国連総会で新型インフルエンザ対策の必要性を強調する演説を行った。この演説の重要性をどの国のなんびとたりとも忘れてはならない。人類の危機はそこまで忍び寄っているといえば、果たして言い過ぎであろうか。

「情報:農と環境と医療」でもこのことに注目し、次の情報を提供しているので参照されたい。
  • 鳥インフルエンザ(8-2) 
  • 続・鳥インフルエンザ:ワクチン(11-7) 
  • 2003年以降の鳥インフルエンザのヒトへの感染状況(11-13) 
  • ナイジェリアで鳥インフルエンザウイルスH5N1型が確認される(11-13)
資料の紹介 3:気候変動と人間の健康−リスクと対策−Climate Change and Human Health: Risks and ResponsesWHO/WMO/UNEP
この小冊子は、WHOのClimate Change and Human Health: Risks and Responses の一部を和訳したものである。独立行政法人国立環境研究所の兜 真徳氏が、WHOから依頼された日本における研修教育のための翻訳資料である。氏のご好意でこの資料を手に入れることができた。記して謝意を表する。配布を希望される方はまだ在庫があるようなので、兜氏に連絡されることをお勧めする。なお連絡先は次の通りである(kabuto@nies.go.jp)。また、英語の全文はWHOのホームページで見ることができる。http://www.who.int/globalchange/publications/cchhsummary/en/

この冊子では、全13章のうち「概要」、「第2章:天気、気候と気候変化」、「第4章:気候変動と健康を調べるために公衆衛生がやること」、「第5章:異常気象による健康影響」、「第6章:気候変動と伝染病」、「第7章:気候変動によって、どれくらい病気が起きるか?」、「第8章:成層圏のオゾン層破壊」、「第9章:気候変動のインパクトと適応能の評価」、「第10章:気候変動の健康インパクトのモニタリング」、「第11、12章:気候変動への適応」、「第13章:結論と推奨」が紹介されている。いずれの内容も、カラーの原図と英文・和訳が並記してある。

なお原文には、27の用語解説とまとまった引用文献がついている。引用文献は主として、信頼できる多くの研究者の研究結果を引用したIPCC、EPA、WMO、WHOなどから発行された報告書である。なお、この資料については、次号以降に詳しく紹介する予定でいる。
言葉の散策 8:土はいきている「土−生−世−姓」
「土」という字の中心概念は、経済からみた「土地」でも、材料からみた「土質」でもない。あくまで生命を育むものとしての「土」であることが、中国時代の「説文解字(中国最古の字典)」からわかる。このことは「土」という漢字の成り立ちにも示されている。漢の時代の許慎は説文解字で、「土」は「地の萬物を吐生するものなり」と解説し、「土」が生物を生み出すものの象形であるとしている。

また、「土」を次のように表現している。"二"は地表と地下を表している。つまり、土壌には層のつながりがあり、上の"一"は表土層を、下の"一"は底土層を表している。"|"は地中から地上へのびる植物を示す。説文解字の「吐」は「土」と音が同じで、自然に物を生み出すことを意味している。

この「土」は、土-生-世-姓へと発展した。すなわち、「土」(地の萬物を吐生するものなり)から、「生」(草の生え出る形、草木の生じて土上に生づるに象(かたど)る)に転じ、「世」(草木の枝葉が分かれて、新芽が出ている形)に成長し、「姓」(血縁的な集団)にまで発展した。また、「生」は「産」にと成長した。

天地のすべてのものが萌え出る春。万物が「土」から生まれ、「土」から派生した漢字は、「姓」にいたり、時空すなわち時間と空間を超えてしまったのである。


「石(いわ)走る 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の
萌える出づる春になりにけるかも」万葉集


参考資料

林 蒲田:中国古代土壌分類和土地利用、科学出版社、北京(1996)
白川 静:字通、平凡社(1996)
*本情報誌の無断転用はお断りします。
北里大学学長通信
情報:農と環境と医療13号
編集・発行 北里大学学長室
発行日 2006年5月1日