北里大学

北里大学農医連携教育研究センター

62号

情報:農と環境と医療62号

2011/7/1
破壊・絆・甦生:東日本大震災‐小さな体験から‐
本稿は、東日本大震災に関わる小さな体験記である。筆者が1)本学の水産学部(現海洋生命科学部)と獣医学部の学位授与式に参加した前後と、2)海洋生命科学部と大船渡市が東日本大震災の被害を受けた6日後と、3)大震災被害23日後に海洋生命科学部、海洋バイオテクノロジー釜石研究所、大船渡市および釜石市を訪れた小さな体験やそこから知り得た情報と、4)その後の新聞やTV報道で知った情報からまとめたささやかな体験記である。自然と生活の破壊、その被害を互いに助け合う人びとの絆、さらにはこれに立ち向かい新たに甦生しようとする人びとの姿を体験したので、「破壊・絆・甦生」と題した。

地震と津波という自然の変動は、新たな環境を創出する。その環境変動に伴って農と健康は大きな影響を受ける。環境を通した農医連携の必要性は、今回の大震災でさらに明確になった。また、地震と津波に伴う東京電力(この言葉の記述を忘れてはならない)福島第一原発事故もまさに農医連携の重要性を喚起させる。ただし、ここでは原発事故にはふれない。なお、本稿は雑誌「ビオフィリア:特集号」に掲載された内容を一部加筆・修正したものである。

本校の水産学部(現海洋生命科学部)の学位授与式が始まったのは、平成23年3月9日の10時30分だった。3階建ての大船渡市立三陸公民館の1階では、授与式に参加した卒業生・父母・来賓・教職員のすべてが、どこの授与式でも見られるような厳かな雰囲気を味わっていた。同窓会長の挨拶が始まってしばらくした11時45分ごろ、震度5弱(マグニチュード7.3)の地震が発生した。長く激しい揺れにもかかわらず、全員が粛々と授与式を終えた。

外では警戒のサイレンが鳴っていたにもかかわらず、一声も発しない学生たちの姿に感動した。学生たちはこれ位の地震には慣れているという後からの教員の言葉に、なるほどと変に納得したものだ。このとき大船渡では、60cmの津波をみた。

この地震は、マグニチュード9.0の大地震と優に10mを超える大津波の前兆だった。前兆であることが分かるのは、51時間後の3月11日午後2時45分以降だった。太平洋プレートが北米プレートに沈み込む日本海溝の境界付近で発生した地殻変動は、震源20km・長さ450km・幅150kmに達する巨大なものだった。海底で北米プレートが8mも跳ね上がったという報告もある。平成23年東日本大震災の根源だ。

水産学部の授与式が終了した後、その公民館の3階で教職員と父母の謝恩会が開催された。続いて午後4時30分から大船渡プラザホテルで、学生による教職員への感謝祭が行われた。この感謝祭は学生の恩師への感謝なのか、自分たちの単なるパフォーマンスなのか判別しにくいところがあるが、毎年若者の熱気は最高潮に達する。

その晩、筆者はこのホテルの4階に宿泊した。3月11日の大津波は、授与式のあった三陸公民館の3階まで、プラザホテルの4階まで飲み込んだ。大地震と大津波が51時間早く起こっていたら、大船渡の学位授与式に参列した多くの関係者は、この大災害に遭遇していたことだろう。地質学的時間で言えば、51時間はほんの一瞬に過ぎない。

筆者が3月11日の大地震に遭遇したのは、本学獣医学部学位授与式が催された十和田市であった。式典は、十和田市民文化センターで10時から挙行された。式典終了後、14時30分から十和田富士屋グランドホールで祝賀会が開催された。学部長の挨拶が終わった14時46分ごろ、あの忌まわしい震度7(マグニチュード9.0)の巨大地震が発生した。2階会場のシャンデリアがぶつかりあうなか、参加者全員沈着に無事屋外に避難できた。建物は倒壊しなかった。駐車場の車は左右に揺れ続けていた。

筆者はその後、十和田のホテルと市民病院で避難民生活を2日間過ごした。その後、北本の看護専門学校の卒業式に参列するため、十和田・青森・青函連絡船・函館を経由して羽田に着いた。ここで教訓を得た。南方に行くには北方の経路を探れ。

時計の針を少しもどす。獣医学部の授与式に参加した学長は、祝賀会には参加せず新幹線で帰京の途についた。学長が大地震に遭遇したのは、この新幹線の車中だった。一晩、車中の人となった学長は、翌日、盛岡・仙台と車を乗り継ぎ帰京し、すぐに緊急説明会を開催、対策本部を組織、陣頭の矢面に立った。対策とその経緯は北里大学のホームページに詳しい。学長のもと、多くの教職員が協力し、この危機を乗り越えた。

大震災の6日後の3月17日、学長補佐と筆者は対策本部が仕立てたバスで14時間かけて震災後の大船渡に出向いた。そこで見たパノラマは地獄の光景だった。ご遺体を探しておられる方、まるで宣伝車のような形で倉庫に乗り上げた車、丘に登った船、瓦礫の中にただ一本残された樹木、授与式が行われた公民館や宿泊したホテルにまとわりつく洗濯ホース、家具の残骸、樹木の切れ端など地獄図絵は枚挙にいとまがない。

悲哀にふける時間はない。高台にあるため被災を免れた海洋生命科学部に到着した後、教職員への激励、現場の見学、行方不明学生の父母との対面、大船渡市長・公益会会長・岩手県広域振興局大船渡支局課長などへの挨拶・会見、さらには行方不明学生の車の確認と市への捜索願いの提出など、一日は瞬く間に過ぎ去る。そのなかでも忘れられないのは、行方不明の学生のご両親の姿だ。3月18日の夕刻7時、41名の学生・教職員とその家族らとバスで帰京。3月19日の朝7時30分、大学本部の白金に到着。学長を始め多くの関係者が早朝に迎えてくださる。これも感激だ。全員放射能の被爆検査を受けて美味いおむすびをいただく。

大震災の23日後の4月3日、学長補佐と筆者は再び14時間かけてバスで大船渡へ出向いた。震災直後の姿は少しずつだが、変容しつつあった。その足でまだ訪れていなかった海洋バイオテクノロジー釜石研究所へタクシーで急ぐ。研究所の建物の1階の玄関のなかに、どこから紛れ込んだのか鎮座まします一台の自動車がある。2階はかろうじて災難を免れていた。職員との長い懇談のあと、牡丹雪が降り注ぐ昼なお暗い街を仮設の釜石市災害対策本部にでかけ、本学が世話になっている釜石市長と対策副本部長に会う。牡丹雪を背に受けて陣頭の矢面に向かう副本部長の後姿は、職務につく男の美が匂い立つ。夕刻7時にバスで大船渡を出る。

バスの中から眺める4月5日の朝日は、万葉集の柿本人麻呂の詠った「東の野にかぎろうの立つ見えてかえり見すれば月傾きぬ」の歌にあるような、嘘のように平和な光を発していた。以上、ながながと短い期間の三度にわたる大船渡の来し方行く末を記した。

「人は人と人の関係において、はじめて人である」とは、筆者が「環境を考える」と題する講義でしばしば語る言葉だ。その人は、どこで人と人の関係を結んでいるか。それは環境の中だ。ところで、現実の日々の中で「環境」とは何か。それは自然と人間との関係に関わるもので、環境が人間を離れて、それ自体で善し悪しが問われているわけではない。両者の関係は、人間が環境をどのように観るか、環境に対してどのような態度をとるか、そして環境を総体としてどのように価値づけるかによって決まる。すなわち、環境とは人間と自然の間に成立するもので、人間の見方や価値観が色濃く刻み込まれるものだ。

この環境が一瞬にして吹っ飛んだ。そのうえ、その環境を価値づけていた多くの人をも飲み込んでしまった。地球の直径は約1万3千kmだ。人びとは、地球の表面にある薄皮のような20cmにも満たない表層土壌に這いつくばって生きている微生物のような存在に過ぎない。環境と人の関係における環境の光の部分は、豊潤な食と健康と四季の提供だ。一方、陰の部分は非情と無情と過酷な試練なのだ。

古来、日本列島には数多くの台風・地震・津波・竜巻などが押し寄せた。列島に住む人びとは、これらの自然現象に伴う数多くの災害を心ならずも受容し、これを行動力・包容力・忍耐力などで克服し、そして、正義感・責任感・使命感・危機感・知識力・行動力・判断力・忍耐力などで再生を図ってきた。これらの自然の驚異が、われら日本列島に住む大和民族と呼ばれる人びとの感性に深く係わってきたと考える。あとは、この民族を束ねることのできる民衆のための政治があればいい。

培われた感性とは、人びとが互いに思いやる優しさ、助けあう心、支援する心、奉仕する心などだ。これらの心を基として、被災地の方々は強靭な精神力によりこの過酷な状況下においても懸命に頑張っておられる。これこそが、日本人の持ち続けた真の力だろう。大本教団襲撃で拷問の末、衰弱死した信徒の岩田久太郎の詠んだ歌は、心に響く。「むちうたばわが身やぶれんやぶれなばやまとおのこの血のいろをみよ」。

平成23年5月31日現在、死亡者15,270人、行方不明者8,499人にも上る大災害は、日本列島に住む人びとの絆という、はるか古代から培われた特性を以下のように鮮明に表出し始めた。この姿は、冒頭ながながと記載した筆者の小さな体験と、その後に報道される日本や世界の大震災への対応から認識したものだ。

まず、災害地が見せた人びとの我慢強さと秩序ある行動だ。震災6日後に観た大船渡市街での給油のために争いもなく並ぶ市民の忍耐強い姿は驚異的だ。続いて国家より優れた地方自治体の秘められていた姿だ。物資の供給や要員の派遣、さらには被害者の受け入れなど自治体やコミュニティー間の協力には目を見張るものがある。震災6日後に大船渡市で観た静岡県・山形県・台湾などの救援隊の姿がその例だ。

さらには、アメリカ海兵隊のヘリコプター部隊が大学の運動場に着陸し、病人の救済に努力していた姿は、印象的だった。教育の視点からすると、被災中に実験用の貴重な材料のマツカワが学生たちの腹に収まったという現場の教職員の報告はすばらしい。実際の場でマニュアルに従わない学生たちのたくましさと行動力は、ここに記述しておくに値する。

次は最澄の語った「一隅を照らす」に代表される個レベルの支援だ。次々と集まる国内外からの義援金、生活物質の供給、個人・企業の奉仕活動(ボランティア)などがこれに当たる。本学新入生のボランティア志願も良い例だ。

最後は自衛隊、市町村長、警察、消防士、医師、看護師などの職務に忠実な献身的な働く姿だ。吉田松陰の歌が思われる。「体は私なり心は公なり私を役にして公に殉う者を大人と為し公を役にして私に殉う者を小人と為す」。

ギリシャの神に時間の神クロノス(Khronos:ニュートンの時間・機械的に流れる時間・時系列の時の流れ)とカイロス(Kairos:変化・逆流・停止する時間・歴史や人生の意味が変わる瞬間)がある。今回の大災害はカイロスの振る舞いと受け止めたい。受け止めた後の正義感・責任感・使命感・行動力とは何か。それは、個人・自治体・社会・教育・研究・政治などがなべて真摯に次の問題に対応することだろう。それは、この列島に住み生かさせていただいてきた日本人の美質との邂逅でもある。

  • 生態系への畏怖(人智を越えたサムシンググレートの存在意識)
  • ベーコンの哲学再考(知は力なり。自然は服従することによってでなければ征服できない)
  • 統合知の確立(環境と農と健康の連携)
  • 上杉鷹山の教え(自助・互助・扶助)
  • 歴史に学ぶ(来し方行く末の科学)
  • 物質循環とエネルギー政策の再考(右肩上がりの社会は成立しない)
  • 虚構の打破(農業生産の回帰)
  • 物来順応の人物育成(物来たればこれに応じて対処する)

最後の「物来順応」は、第32代内閣総理大臣廣田弘毅が座右の銘としていた言葉だ。政治を志す輩は、少なくともこの言葉を吟味し肝に銘じて民衆のための政治に参加すべきだ。

最後に、東日本大震災被災地の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

地震による津波の歴史
地震および海底火山などに伴う津波という驚異的な自然の変動は、新たな環境を創出する。その環境変動に伴って農と健康は多大な影響を受ける。このことは、今回の東日本大震災によっても如実に示された。ここに厳然とした事実として、環境を通した農医連携の必要性を再認識させられた。このことは前項でも強調した。さらに、地震と津波によって生じた原子力発電所の放射能汚染事故も、農医連携の重要性を喚起させる。農医連携は将来この放射能汚染の問題に徹底的なメスを入れなければならないが、今回はこの問題には触れない。

平成23年3月11日の大津波の経験を忘れてはならない。ということは、それ以前の歴史に現れた津波も忘れてはならないことでもある。われらは、常に「来し方行く末」「歴史に学ぶ」「温故知新」「不易流行」「無用の用」「自然への畏怖」などという概念を念頭に置いて生きていく必要がある。それゆえ、わが国の地震による津波被害の歴史をまとめてみる。その前に、津波の語源を振り返ってみよう。

語源:「津波」という語は、通常の波とは異なり沖合を航行する船舶の被害が少ないにもかかわらず、津(港)で大きな被害をもたらす波に由来する。文献に「津浪」が認められる最古の例は『駿府記(1611-1615年の日記)』だという。慶長16(1611)年10月28日に発生した慶長三陸地震について、駿府記に「政宗領所海涯人屋 波濤大漲来 悉流失 溺死者五千人 世曰津浪・・」とあるという。なお、表記には「津波(浪)」の他に「海立」「震汐」「海嘯」などとあるが、すべて「つなみ」と読む。

英語の文献に「Tsunami」という語が初めて使われたのは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が明治30(1897)年に出版した「仏の畠の落ち穂:Gleaming in Budda-Fields」の中に収録された『生神様:A Living God』の中だとされる。濱口梧陵をモデルにした『生神様』では、地震後に沿岸の村を飲み込んだ巨大な波を「Tsunami」と現地語の日本語で表現した。この言葉は、1904年の地震学会の報告に初めて使われ、地震や気象の学術論文などに限られたものであった。英語圏では「tidal wave」という言葉が使われてきたが、この語の本来の意味は天文潮汐(tide)による波を示し、地震による波にこの語を使うのは学問的にふさわしくないとされた。現在ではtsunamiが用いられている。

研究者の間では「seismic sea wave:地震性海洋波」という言葉が使われることもあったが、あまり一般的ではなかった。1946年にアリューシャン地震でハワイに津波の大被害があった際、日系移民がtsunamiを用いたことから、ハワイでこの語が使われるようになった。被害を受けて設置された太平洋津波警報センターの名称も、1949年には「Pacific Tsunami Warning Center」と命名されたことから、アメリカ合衆国ではこの言葉が広く用いられるようになった。その後、1968年にアメリカの海洋学者ヴァン・ドーン(Van Dorn)が学術用語として使うことを提案し、国際的に広く使われるようになった。「ツナミ」は学術用語として国際語になっていたが、2004年のスマトラ沖地震による津波の激甚な被害が世界中に報道されたことを契機に、広く世界中で使われるようになった。
地震によるわが国の主な津波災害の歴史
(主としてマグニチュード8以上:なお地域と備考の表記の方法に一貫性はない)


西暦経過
年数
和暦 M地域備考
684 天武13 8.25土佐・南海・西海南海トラフ沿/土佐12km2沈下
869 185貞観11 8.3三陸沿岸三陸沖/津波多賀城来襲
887 18仁和3 8-8.5五畿・七道南海トラフ沿/摂津
1096 209永長1 8-8.5畿内・東海道東海沖/伊勢・駿河
1099 3康和1 8-8.3東海道・畿内土佐田千余町沈下・摂津
1360 261正平15 7.5-8紀伊・摂津熊野尾鷲・摂津兵庫
1361 1正平16 8.25-8.5畿内・土佐・阿波南海トラフ/摂津・阿波・土佐
1408 47応永14 7-8紀伊・伊勢紀伊・伊勢・鎌倉
1498 90明応7 8.2-8.4東海道全般南海トラフ/伊勢から房総
1611 113慶長16 8.1三陸・北海道東岸三陸沿岸/南部・津軽・三陸
1677 66延宝5 8盤城・常陸・安房・両総盤城から房総
1703 26元禄16 7.9-8.2江戸・関東諸国盤城から房総
1707 4宝永4 8.6五畿・七道宝永地震・遠州灘沖と紀伊半島沖の二大地震/紀伊半島から九州・土佐最大
1793 86寛政5 8-8.4陸前・陸中・盤城仙台・大槌・両石・気仙沼
1854 61安政1 8.4東海・東山・南海安政東海地震・駿河湾奥/房総から土佐
1854 0安政1 8.4畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽串本・久札・種崎・室戸・紀伊
1891 37明治24 8仙台以南濃尾地震
1896 5明治29 8.25三陸沖三陸地震津波・北海道から牝鹿半島/吉浜・綾里・田老
1911 15明治44 8奄美大島付近喜界島地震
1918 7大正7 8ウルップ島沖根室・父島
1923 5大正12 7.9関東大震災熱海・相浜
1933 10昭和8 8.1三陸沖三陸地震津波・日本海溝付近/三陸沿岸・綾里
1944 11昭和19 7.9東南海地震熊野灘・遠州灘・紀伊半島東
1946 2昭和21 8南海道沖南海地震・静岡から九州/高知・三重・徳島・室戸・紀伊
1952 6昭和27 8.2十勝沖十勝沖地震・北海道南部東北北部/関東地方・三陸沿岸
1952 0昭和27 9.0カムチャッカ半島沖太平洋沿岸・三陸沿岸
1958 6昭和33 8.1択捉島沖太平洋岸各地
1960 2昭和35 9.5チリ沖チリ地震津波/三陸沿岸・北海道南岸・志摩半島
1963 3昭和38 8.1択捉島沖三陸沿岸津波
1964 1昭和39 7.5新潟地震新潟・秋田・山形
1993 29平成5 7.8平成5年北海道南西沖地震奥尻島
1994 1平成6 8.2成6年北海道東方沖地震北海道東部/花咲・択捉
2011 17平成23 9.0東日本大地震三陸沖/青森・岩手・宮城・茨城・千葉
国内外で死者が1万人を超えた津波は、以下の通りである。
1792年 5月:雲仙岳の噴火と地震による津波で1万5千人
1868年 8月:チリ北部を震源とするアリカ地震の津波で2万人以上
1883年 8月:スマトラ島近くのクラカトア火山の噴火による津波で3万6千人
1896年 6月:明治三陸地震で2万2千人
2004年12月:スマトラ沖巨大地震による津波で28万人以上
2011年 3月:東日本大震災による死者1万5千、行方不明者1万弱
地震による三陸沿岸の津波災害の歴史

西暦経過
年数
和暦 M地域備考
869 貞観11 8.3三陸沿岸三陸沖/津波多賀城来襲
1257 388正嘉1 7-7.5関東南部鎌倉・三陸?
1611 354慶長16 8.1三陸・北海道東岸三陸沿岸/南部・津軽・三陸
1616 5元和2 三陸沿岸 
1676 25延宝4 三陸海岸一帯 
1677 1延宝5 7.25-7.5陸中八戸
1677 0延宝5 8盤城・常陸・安房・両総盤城から房総
1730 53亨保15 陸前陸前沿岸
1793 63寛政5 8-8.4陸前・陸中・盤城仙台・大槌・両石・気仙沼
1835 42天保6 仙台地震 
1856 21安政3 7.5日高・胆振・渡島・津軽・南部三陸・北海道南
1877 21明治10 チリ釜石・函館
1894 17明治27  岩手県沿岸
1896 2明治29 8.5三陸沖明治三陸地震津波・北海道から牝鹿半島/吉浜・綾里・田老
1897 1明治30 7.7仙台沖盛町・釜石
1898 1明治31 7.2宮城県沖岩手・宮城・福島・青森
1901 3明治34 7.2八戸地方青森・秋田・岩手・宮古
1933 32昭和8 8.1三陸沖三陸地震津波・日本海溝付近/三陸沿岸・綾里
1936 3昭和11 7.5金華山沖福島・宮城
1938 2昭和13 7塩屋崎沖小名浜付近沿岸
1938 0昭和13 7.5福島県東方沖小名浜・鮎川
1952 14昭和27 8.2十勝沖十勝沖地震・北海道南部東北北部/関東地方・三陸沿岸
1952 0昭和27 9.0カムチャッカ半島沖太平洋沿岸・三陸沿岸
1960 8昭和35 7.2三陸沖岩手・青森・山形
1960 0昭和35 9.5チリ沖チリ地震津波/三陸沿岸・北海道南岸・志摩半島
1963 3昭和38 8.1択捉島沖三陸沿岸津波
1968 5昭和43 7.9青森県東方沖 1968年十勝沖地震/青森・北海道南部・三陸沿岸
1994 26平成6 7.6 平成6年三陸はるか沖地震/八戸
2011 17平成23 9.0東日本大震災三陸沖/青森・岩手・宮城・茨城・千葉
津波は地震やプレートの移動などで起こる自然現象である。ということは、今後も津波は果てしなく反復されることを意味する。海底地震が頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の影響を受ける位置にある三陸海岸は、リアス式海岸という津波を受けるに最も適した地形にある。三陸海岸は、本質的に津波の最大被害地としての条件を十分すぎるほど備えている。今後も津波は三陸海岸を襲い、その都度三陸に災害を与えるであろう。

そのことを肝に銘記するために、この年代表をまとめた。明治29(1896)年の大津波、昭和8(1933)年の大津波、昭和35(1960)年のチリ地震津波、そして今回の平成23(2011)年の東日本大震災は、37、27、51年の間隔で発生している。明治以降の小さな津波も考慮すれば、三陸沿岸では、絶えず津波による災害を受けていることになる。

死者数と流出家屋を比較してみる。明治29年(26,360人、9,879戸)、昭和8年(2,995人、4,885戸)、昭和35年(105人、1,474戸)、平成23年(死者15,270人、行方不明者8,499人、避難者10,2273人:5月31日現在)。

参考資料

全国義援金総合募金会: http://saigai.org/a-kakotunami3.html
理科年表平成19年(机上版):国立天文台編、丸善株式会社(2006)
三陸海岸大津波:吉村 昭著、文春文庫(2004)

第8回北里大学農医連携シンポジウムアブストラクトのホームページ掲載について
平成23年4月20日に開催予定であった第8回北里大学農医連携シンポジウムのアブストラクトを本学HPに掲載しました(第8回北里大学農医連携シンポジウムアブストラクト(4.88MB))。
第8回北里大学農医連携シンポジウムの内容:3.農医連携:世界の動向
平成23年4月20日に開催予定であった第8回北里大学農医連携シンポジウム「農医連携の現場:アメリカ・タイ・日本の例」のうち、演題「北里大学における農医連携教育」を紹介する。残りの演題については、本号および次号以降に順次紹介する。

北里大学における農医連携教育
 
北里大学:向井孝夫・松下 治

1.はじめに
北里大学では、「農医連携」を教育・研究の重要な施策のひとつとして掲げています。教育面においては、獣医学部動物資源科学科と医学部がその推進役を担い、平成21年度から、医学部の協力のもと動物資源科学科のカリキュラムに新教育プログラム「農医連携教育プログラム」を構築し、実施しています。本プログラムは、平成21年度文部科学省「大学教育・学生支援推進事業(テーマA)大学教育推進プログラム」にも採択されており、農医連携の取り組みは一層加速されている状況にあります。本シンポジウムでは、現在実施している「農医連携プログラム」の現状や農医連携教育の今後の展開について紹介いたします。

2.農学と医学の教育連携の必然性
「農」と「医」はかつて同根であり、現在でも、「農」は、食を支えるとともに環境保全といった多面的な機能を持ち合わせ、人の健康に寄与しているという点において、「医」と密接に結びついていると言えます。しかし、学問としての「農学」と「医学」は、それぞれの立場で独自に発展し、人材養成など教育面では積極的な連携が重視されないまま今日に至っているのが現状です。食の安全性が失われ、健康被害が発生するといった問題や、人獣共通感染症の発生・拡大といった今日的問題が生じ、持続的に発展可能な人間社会を構築することが危惧される状況に陥っている今こそまさに、「農学」と「医学」の連携による教育の実現により、多様な問題の解決が迫られていると考えています。

3.動物資源科学領域と医学・医療との接点
従来、動物資源科学領域は、「動物性食料の生産から消費に至る様々な問題の解決」を軸として農学領域の中で発展してきました。具体的には、動物の飼育方法や動物機能および生産物に関する科学的知識・技術を提供することを教育の柱としてきました。現在では、受験生や社会のニーズに応えるために、「動物と人の健康」「生命現象の解明」「食と健康」等にも焦点を当て教育・研究を展開しています。動物資源科学の教育・研究領域が拡大するにつれ、「医」の領域との接点で教育連携を必要とする要因が増えてきました。

動物資源科学領域と「医」の接点として捉えられる今日的な課題の一つに、「動物性食品の安全性」が挙げられます。消費者に安全な食品を提供するためには、生産段階で安全な食(素材)を生産することに加え、消費者に危害をもたらすような成分が食に含まれていないかを理解する必要があるのではないでしょうか。換言すれば、「食の安全」を確保するためには、食の生産に関わる健全な土、水、大気とは何かを知ることから始まり、食が人に引き起こす疾患を念頭において、病原体、化学物質、がん、免疫等に関する知識や検査技術を理解することまでが必要になると思います。すなわち、今求められていることは、食の生産から消費・人の健康に至るまでを包括的に理解し、リーダーシップを発揮できる人材であるとも言えるのではないでしょうか。

少し話がそれますが、昨年のノーベル医学生理学賞は、世界初の体外受精児を誕生させた英国のロバート・エドワーズに授与されたのは記憶に新しいところです。それでは国内において哺乳動物の体外受精技術を初めて導入した研究者は誰かと申しますと、現動物資源科学科の前身であった畜産学科に所属していた豊田裕先生でした。このような経緯もあり、動物資源科学科では、歴史的に体外受精の教育・研究に力を入れてきました。体外受精技術は現在、不妊治療のための生殖補助医療に活用されるようになりましたが、動物資源科学科では毎年、10名以上の学生が人の不妊治療病院に就職しているという状況があります。現実的な問題として、医療に近い現場に進む学生がいる中で、医療・医学に関連する教育を実施する体制をつくる必要性を強く感じてきました。

ここでは、食の安全性や生殖補助医療を動物資源科学領域と医の接点の例として取り上げましたが、本学科の卒業生の進路は、医薬品関連分野や医学領域の実験動物研究機関など、医学・医療領域へと拡大している状況があります。しかし、これまでの教育課程では、医学・医療側からの教育はほとんどなされておらず、卒業生の進路を考える上でも問題を抱えていました。このようなことから、農と医の連携による体系化された教育課程を構築することが必要であると考えました。

4.農医連携教育による学科教育の質の保証
ここ十数年、大学教育の質を保証するための様々な提言がなされてきました。教育の質の保証とは何か、教育学を専門としない大学教員にとっては非常に難しくとらえられがちです。平成20年に出された中教審答申「学士課程教育の構築に向けて」の中では、教育の質の保証とは、グローバル化する知識基盤社会において、知識・技能・態度の三要素からなる、国際的かつ総合的な実践力を身に付けた人材を養成することと提示されています。また、その中では、学習成果(アウトカム)中心の教育システムを構築することにより、従来の教員中心から、学生中心のアプローチへと転換できること、学生の学習への動機付けが高まること、新たな教育プログラム構築のため、教員同士のコミュニケーションと教育への組織的取組が促進されること等によって、大学教育の質が保証される方向に進むことが示されています。

5.農医連携教育プログラムの目指すもの
以上のような背景を踏まえ、我々、動物資源科学科では、農医連携教育を一つのきっかけとし、教育の質を保証する教育システムとして、「農医連携教育プログラム」を実施することとしました。

大学教育の最大の目的は、何といっても有益な人材を育成し社会に輩出することに集約されます。したがって、人材育成目標、換言すれば、卒業時の到達目標を明確にしなければ、大学教育の質は保証されません。動物資源科学科では、農医連携教育の導入にあたり、学科全学生に対して、「農」と「医」の複眼的視点を持ち、1.生命倫理観、2.創造的思考力、3.課題探求能力、4.コミュニケーションスキル・情報発信力、等の汎用的能力を基盤とする問題解決型の人材(ジェネラリスト型人材)を育成することを目標としました。また、希望者に対して、生殖補助医療、食の安全、実験動物および動物介在活動・療法に関わる専門性の高いプログラムを準備し、スペシャリスト型の人材を育成することも目標としました。これらの目的のため、「農医連携教育」を柱とした新教育プログラム「農医連携教育プログラム」を編成し(右図参照)、医学部の全面的な協力のもと、「農」と「医」の境界領域の教育を充実させるとともに、新プログラムの導入により学科全体のカリキュラムの見直し、教育手法の改善等を図ることとしました。

6.農医連携教育プログラムの具体的な教育例
(1)農医連携教育セミナーでの公開発表
農医連携教育プログラムの中では、医学部で実施された実習報告と学生自ら課題を見つけそれらに関する考えをまとめて発表する機会として「農医連携教育セミナー」を実施することとしました。これまで、2回のセミナーを実施しました。本セミナーを通して、受け身学習から「課題発見・解決型」学習への転換をはかることが期待されました。このようなプレゼンテーションの機会は、従来から、卒業発表会がありますが、「自ら課題を見つけ、考え、発表する」という点において卒論発表とは教育効果が異なり、また、3年次という早い段階で公開発表の機会を得ることで、就職活動に役立ったという声も聞かれました。

(2)医学部での実習
本プログラムでは、3年次に将来の進路を見据え、希望者は専門性の高い実習を医学部で受講することができます。学生諸君にとっては、医学部で実習が実施されるということもあり、生半可な気持ちで実習科目を選択することはできず、自分自身の将来の進路や学習意欲に基づき選択すべきかどうかを熟慮していたようです。医学部での実習は、基礎系から臨床系の先生方のご協力を得て、「医科実験動物」「食の安全」「生殖補助医療」「動物介在活動・療法」の4分野で実施されました。

7.農医連携教育プログラムの実施により得られたこと
本プログラムは、実施2年目ということもあり、人材育成において十分な成果が得られたか否かを評価するまでには至っていないのが現実ですが、いくつか少しずつ成果も現れています。
それらを要約すると以下のようなことが挙げられます。
学生の視点から
  • 生命との繋がりの観点から農学の重要性を再認識
  • 低学年次から進路・職業への段階的な意識の醸成
  • プログラムの進行に伴う能動的な行動力の芽生え、判断力の醸成
  • プレゼンテーション能力の獲得
  • 新しい人間関係を構築、教員との接触機会の増大
  • 自学自習の習慣の獲得
  • 北里に対する愛校心、プライドの醸成

教員の視点から
  • 従来教育の問題点の抽出の実施
  • 人材育成の具体的目標が不明確
  • 個別の科目・項目の羅列による履修コースの構成、すなわち科目間の連携・順次性の欠如、学習項目の重複や欠落
  • 教員間の意見交換の場の増大、教員と学生の距離感が接近
  • 異分野の教員との交流による教育の捉え方の視野の拡大

8.農医連携教育の今後の課題と展望
ここまで述べてきたように、北里大学における現状の農医連携教育は、獣医学部動物資源科学科と医学部が中心となり展開されていますが、1年次においては、獣医学部に属する獣医学科と生物環境科学科においても農医連携論の一部が実施されています。また、教養演習科目(選択科目)として「農医連携論」が開講されています。しかし、大学全体の観点からは、広がりを見せておりません。本学の特色は、医療系学部が充実していることに加え、獣医学部及び海洋生命科学部という農学系学部が設置されていることであり、本学の重点施策である「農医連携」構想の基盤ともなっているので、今後この特色を教育に活かしていくべきであると考えます。個人的に昨年まで本学の将来構想検討委員会委員を務めさせていただき、農医連携に関して、以下のことを提案させて頂きました。すなわち、自然環境(土・水・生態系)や食が、人類の健康の維持・増進に如何に寄与しているかという農医連携の意義を学生に教授することは、生命科学を教育の基盤としている本学にとって大きな特色になると考えられます。この考え方を全学部の学生にまで浸透させることによって、大学全体として有益な人材を輩出できるのではないかと考えました。一例として、体験型実習を基盤とする「問題発見・解決型教育」プログラムを構築し、初年次教育の一環として学部の枠を超えて展開することを提案しました。例えば、東北・北海道地区の各キャンパス、実習所・牧場等の施設を活用し、食料生産現場という生きたフィールドにおける実体験を踏まえて地球環境や生態系の現状に対する正しい認識と理解を深めつつ、資源の有限性と人類の健康について討論させる等の教育を通じて、「受動的に覚える学習」から「能動的に考えて行動する学習」への転換を促すというものです。また、このような体験学習からは「共同生活を通じた自律性とコミュニケーション力の養成」も期待でき、その後の学生生活のみならず、人生に対しても計り知れない好影響を及ぼすのではないでしょうか。

9.おわりに
本シンポジウムでは、北里大学の実情に合わせた農医連携教育の在り方や考えを述べてきましたが、他大学においても、それぞれの実情に合わせた農医連携教育を展開することは可能であると思います。人類が豊かさを維持・向上させ、今後も持続的な発展を維持していくためには、環境・食と生命や健康といったことを関連付ける人材を養成することが必須であると考えられます。そのような観点から、北里大学に留まらず、農医連携教育の考え方が国内、国外に広がることを期待します。

第8回北里大学農医連携シンポジウムの内容:4.親子二代で取り組んだ有機野菜栽培(自然農法)
平成23年4月20日に開催予定であった第8回北里大学農医連携シンポジウム「農医連携の現場:アメリカ・タイ・日本の例」のうち、演題「親子二代で取り組んだ有機野菜栽培(自然農法)」を紹介する。残りの演題については、本号および次号以降に順次紹介する。

親子二代で取り組んだ有機野菜栽培(自然農法)
 
有限会社豆太郎代表:須賀利治

【経営概要】
栽培品目:米、大豆、小麦、野菜(約40品目)野菜を400個確保するよう栽培
耕地面積:6ha(水稲90a、野菜2ha、大豆2.5ha、小麦3ha)労力:妻と父母
流通:野菜セット販売(約400セット)、全国チェーンレストラン、地元有機加工食品会社等

【概要】
私の住む上里町は、埼玉県最北端で東京都から85キロメートル圏内に位置しています。烏川、神流川の2大河川を境にして群馬県と隣接している小さな町です。全国的にみても寒暖の差や降水量が少なく、比較的日照量が多い地域です。

私は父が長年かけて築き上げてくれた自然農法を受け継ぎました。まだいろいろな失敗がありますが、自然の力を信じ、自然の姿や営みを規範とし、そこから学びながら、努力しています。その中で、畑の土の状態や、技術のコツが次第にわかるようになり、圃場の特性に即した技術を学んだことで、栽培ができたり、病害虫が減り、除草も楽になり、以前に比べると労力をあまりかけなくても、美味しい農産物が収穫できるようになってきました。

【栽培品目と土づくり】
我が家の圃場の土は、沖積土壌(砂土、砂壌土、粘土)、火山灰土壌(壌土)、沖積土壌と火山灰土混合土壌の5種類の土があり、作物はそれぞれの土壌に合わせて栽培しています。
<砂土>ピーマン、ナス、ニンニク、小麦‐大豆(輪作)
<砂壌土・粘土>長ネギ、ニンジン、ハクサイ、葉物、水稲‐小麦(2毛作)
<混合土>キャベツ、ブロッコリー
<火山灰土>ダイコン、カブ、ホウレンソウ

栽培品目については適地作・適期作を心がけて栽培しています。ブロッコリーの栽培は、この地域で7月下旬が播種時期なのですが、その時期に播種をすると、ほとんど害虫により収穫できなくなってしまいます。ある時、作業上、播種期が、8月3・4日になってしまったことがあり、駄目でもいいと思い播種したところ、それが害虫にもやられずに良くできたことから、我が家では播種時期を8月上旬としています。しかし、最近の温暖化により、現在の播種時期は8月9日以降となってきています。

土づくりは、河川敷の雑草をロールにしたものを購入し、2年ほど堆積・切り替えしたものを、作物に併せて年間10a当たり1t弱ほど使用すること、そして、窒素を固定してくれるエダマメを栽培することで土づくりを行なっています。

【栽培実例】
○長ネギは、ロケットという穴あけ機を使って平植し、除草を兼ねて土上げをしていきます。そのため、一定の高畝にするため畝幅は広くなります。
 <砂土>ピーマン、ナス、ニンニク、小麦‐大豆(輪作)
○ハクサイは、直播で行ないます。以前は、育苗していましたが、一時期ハクサイが結球しなくなり、母の家庭菜園では、直播でよく出来ているのを見て行なったところ、病気や虫にも強く、よく出来たので現在は、この方法で栽培しています。これは、直播にすることにより、直根がしっかり発達し、そのことが環境の変化にも対応できているのではないかと考えています。
○ダイコンは、間引きの手間と発芽率の良さを考えて、一粒播きを行なっています。

【地域への普及啓発】
親と共に始めた頃は、上里普及会の先輩方はいましたが、地域に自然農法を理解する若い仲間がいませんでした。しかし、自然農法を若い世代に広めたいとの思いを込めて、同年代の農家に、作った野菜を食べてもらいました。野菜の味が違うと言うことから、自然農法を学びたいという後継者が徐々に生まれるようになり、現在13人の仲間ができ心の励みになっています。さらに、近隣の町や村の自然農法普及会とネットワークを組み、皆が安心して暮らせる地域づくりに向かいつつあることに大きな期待を抱いています。

【生きがいのある農業・医療との連携】
平成13年から、東京都港区高輪にある統合医療を進める医療機関の食事に私の野菜を使っていただいていますが、管理栄養士の方々から、患者さんが「野菜の美味しさに感動し、食欲が湧いて食べられるようになり、健康になりました」との感謝の声を聞かせていただき、自然農法の野菜の力を実感しています。

また、群馬県のKさんは、お子さんがひどいアトピー性皮膚炎で、あれこれ治療法を求め、有機農業の農家から野菜を手に入れて食べさせましたがよくならず、ある小児科医の紹介で、ワラをもすがるような思いで訪ねてこられました。我が家の野菜を夕食に料理して子どもに食べさせたところ、本当に美味しそうに食べたそうです。いつも全身から膿(ウミ)のような汁がたくさん出るのに、次の日は軽くなり、びっくりしたご両親から早速、電話があって、喜びと感謝の声を伺いました。我が事のように感じ、嬉しくて仕方がありませんでした。その後も毎週1回、宅配便で野菜を送るたびごとに、子どもの病状が改善される経過と感謝の言葉をつづって知らせてくれました。

人から感謝されるという、こんなに素晴らしい喜びは、自然農法に取り組ませていただいているからこそであり、私の方こそ食べていただいている方々に感謝しなければならないと思っています。そして、このような現代病で悩んでいる人が大勢いることを思うほどに、このような事実を励みに、自然農法による種採りや土地にあった野菜の種類を見つけるなど、自然の営みや力に感謝しつつ、さらなる努力を積み上げていきたいです。

【今後の夢】
今、国内外から様々な分野の協力者・理解者が増えてきていると感じます。これからは、行政も含め、食生活を基に街づくり・地域づくりをしていきたいと考えています。自然農法で生産されたものが、ただ売った、買っただけではなく、食を通して、また、環境の問題を通して、自然農法の考え方・生き方に共感した人たちが、自分たちが持てる技術やアイデアを持ち寄り、生活に密着した形での街づくり・地域づくりに取り組む輪が拡大していくことで、よりよい社会が出来ればと思っています。

第8回北里大学農医連携シンポジウムの内容:5.カリフォルニアにおける健康食品の生産と利用/食する者はみな農業従事者である
平成23年4月20日に開催予定であった第8回北里大学農医連携シンポジウム「農医連携の現場:アメリカ・タイ・日本の例」のうち、演題「カリフォルニアにおける健康食品の生産と利用/食する者はみな農業従事者である」を紹介する。残りの演題については、次号以降に順次紹介する。

カリフォルニアにおける健康食品の生産と利用
 
T&Dウィリーファームズ:トム・ウィリー

農業とは、短期間の人類の試みであり、その結果は未だ結論に至っていない。われわれや他の「高等生命体」と呼ばれるものは、依然この地球上の全生物種の2/3を占めている単細胞生物の独自の発明にほとんどの代謝機能を委ねている。ヒトの形をした生命体は約500-600万年前にチンパンジーとの共通祖先から分岐した。霊長類学者リチャード・ランガム(Richard Wrangham)は、著書「Catching Fire」の中で、ホモエレクタス(Homo erectus)が約200万年前に料理を発明し、栄養面で現在の脳の大きなホモサピエンス(Homo sapiens)への道を開いたと論じている。料理はしていても、高度な知能を持ったわれわれホモサピエンスは、ごく最近まで種の歴史上の95%の期間、自然生態系からの狩猟採集をおこなってきた。

進化生物学者は、一般に農業開始以前のわれわれの食習慣は、栄養面でより優れており、ヒトにより健康で疾病のない生活をしていたことに同意している。10,000年前に起こった前回の気候変動の人口圧迫を受けて、ヒトの地域集団は植物を栽培し動物を飼育し始めた。生物地理学者ジャレッド・ダイアモンド(Jared Diamond)は、続く6千年の間に最初の農業の「発祥地」が世界中で9ヵ所のそれぞれ独立した地域で発展したという。これらの地域から、世界の主要農作物および農業革命が飛躍的に広がった。こうして、ヒトの小地域集団は幾何学的な人口増加を見せ、複雑な文明に転換した。この過程で狩猟採集社会はほとんど消滅したが、人体は、生理機能がより進化的に適した農業開始以前の豊富な食習慣を依然として必要としている。

農業の近代産業化は、一世紀にわたる人為的な窒素合成に煽られて穀物生産を大きく増加させる高機能エンジンとなり、僅か三世代で人口を3倍以上に増加させた。ハイブリッド革命および緑の革命は、世界中の最近の爆発的な農業生産性における重要な一里塚である。米国および英国政府が出資した研究から、50年間に生産された食料の栄養素含量は著しく低下したことがわかる。生産性の高い農業により、今日の食料不足の世界に安価なカロリーが大量に供給されているようであるが、消費カロリー当たりの栄養素は少ない。有機農法で利用されている生物学的生産では、従来の農業では通常生長促進剤として化学窒素をふんだんに使用することが避けられるので、この「希釈効果」が部分的に緩和されていると思われる。農業に自然システムをさらに模倣した機能を組み入れることにより、今や人間社会が無くしてはいられないほどに依存している、より優れた栄養と健康、および耕作地の持続性への道が解明されるかも知れない。


食する者はみな農業従事者である
 
トム・ウィリー

1.現代の農法について信頼できる批評家であるには、われわれの苦しい状況に対して、より広い生物学的視点とより深い歴史観を通したものの見方が必要である。この講演の課題は、現在の状況は、われわれが土を耕し、種子を撒くことの必要性を皆さんに納得していただくという意図を持ったものである。「創世記」はわれわれにこのように諭している:「Thou art of soil and unto soil thou shalt return(汝、土よりなりて、土に帰すべし)」最先端科学は、西洋の創造神話の助言がどれほど文字通りに正しかったかを明らかにし続けている。

2.ヒトは、この地球で約35億年前に始まった生命のパレードに漸く参加したばかりなのである。われわれは当然のことながら、見ることができる世界に対して好意を抱くものであるが、地球は、これらのような生物によって「所有され稼動されている」のである。20億年に先手を切ったバクテリアは、いわゆる「高等生命体」に関連する全ての重要な代謝機能のほとんどを最初に作り出した。それらの代謝機能には、光合成、安全に酸素呼吸する能力、消化、発酵、われわれの脳で用いられる電気化学、遺伝子工学として注目されているDNAの組換え、ビタミンの生成、および大気窒素の生物利用形態への変換エネルギー集約型プロセスなどが挙げられる。

3.グールドは、人類が単に「生物の3大領域のなかで、たった一本の枝上にある3本の小枝の1本」を占めているに過ぎないことを謙虚に認識することをわれわれに思い起こさせている。以下は、進化生物学者の故スティーブン・J・グールド(Stephen J. Gould)の言葉である:「どのような可能、合理的、あるいは公平な基準をもってしても、バクテリアは地球上の優占生命体であり、また常にそうあり続けてきた」。生物学者リン・マーグリス(Lynn Margulis)は、「その結果、バクテリアが繋がり協力して形成された世界を跨ぐ超有機体によって、より大きな生命体にとって肥沃で居住可能な惑星ができた」と続けている。人類は、最も高度に進化した優占生物がバクテリアである惑星の来客に過ぎない。そのような微生物は疾病の原因でしかないという、われわれの初期の排斥し難い概念は、われわれを危険なほど恩知らずな客にしてしまった。カール・ウーズ(Carl Woese)の「生命の樹」は、地球上の全生物多様性の2/3はバクテリアであることを正しく示している。外洋や岩の亀裂の何マイルも深い場所にバクテリアが偏在するという最近の発見は、この生命体が全ての動植物の重量を上回る、われわれの惑星の最も大きなバイオマスである可能性をも示唆している。

4.約500-600万年前、ヒトとチンパンジーが共有する共通祖先からサブグループが分化した時、われわれ「新入り」種の小史が始まった。約200万年前そのサブグループがホモエレクタス(Homo erectus)へ進化すると同時に特有のしきたりが始まった:彼らは林冠から下り、火の扱いを学習し、食物を料理するようになった。われわれは、動物界に特有のこの驚くべき革新の重要性をここで検討する。われわれが農業として知っている、この全く新しい植物の栽培と動物の家畜化は、非常に短期間の試みであり、われわれのホモサピエンス(Homo sapiens)としての200,000年史のわずか5%に当たるに過ぎない。進行中であるこの試みの結果は未だ明らかでない。

5.進化生物学者は、ダーウィン時代以来、ヒトの大きな脳に秘められた原動力について、論争的に講義を続けてきた。昨夏、ハーバードの霊長類学者リチャード・ランガム(Richard Wrangham)は、これまで考えられなかった単純明快な仮説を提案した:「料理に決まっているだろう」。火を使って食物を加熱し、効果的にタンパク質を変質させデンプンをゼラチン状にすることにより、人体が食物から摂取できるエネルギー量を大幅に増加させた。

6.ヒトの祖先である「料理する類人猿」は、彼らの霊長類の近縁種が今日なお行うように、林冠で生の葉を噛みながら毎日6-8時間を過ごすことは、もはや必要でなくなった。消化器は次第に小さく、より効率的に進化し、著しくエネルギー量が節約され、エネルギー要求量の高い器官である脳のために使えるようになった。今日、おそらく料理の発明のおかげで、大きな脳を持った類人猿であるホモサピエンスは、全代謝エネルギーの20%という前代未聞のエネルギー量を、全体重量のたった2%しかない器官である脳に自由に送ることができるのである。

7.われわれは、200,000年史の最初の190,000年間を狩猟採集民として、低く垂れ下がった果実を恵み深い自然から単に採集して生活していたが、料理もしていたことを忘れてはならない。旧石器時代の食物は現在の西洋の食習慣と異なり、ビタミンEとビタミンCの多い緑の葉野菜や果物が多く、今日と比較して、全体で少脂肪(必須脂肪酸オメガ-6と必須脂肪酸オメガ-3の摂取量バランスは1:1)、植物性抗酸化物質、カルシウムおよびカリウム摂取量が多く、塩分は少なかった。そのような狩猟採集民の食習慣は、未だにわれわれの体と遺伝子プロフィルがより適するように進化し、プログラム化されているものである。今日われわれの多くは、穀物を主とする食事から、恐ろしいことにオメガ-3より10-25倍多いオメガ-6を摂取している。進化生物学者は一般に次のことに同意している。すなわち、狩猟採集民としての生活は仕事の負担が軽く、より良好な栄養状態に恵まれており、その結果成人の身長をより高くし、直立した姿勢をもたらし、疾病にかかることも少なかった。

8.ピューリツァー賞を受けたジャレッド・ダイアモンド(Jared Diamond)は、農業の起原とそれがもたらしたものについての画期的な研究について書いているが、彼はその中で、「植物栽培と動物の家畜化は、過去13,000年の人類の歴史で最も重要な発展である」と主張している。では、もし自然の「エデンの園」がわれわれの有史以前の祖先にそのようなすばらしく、栄養に富んだ生活を供給していたのなら、なぜわれわれは植物の栽培と動物の家畜化などをしたのか?約10,000年前の更新世の終わりに、ほとんど予測できなかった気候や、狩猟対象の大型動物の減少および望ましい生息地での人口圧迫を受け、食料が少なくなったので、恐らくヒトは種子を蒔き動物を群で飼い始めた。

9.続く6,000年にわたって植物の栽培と動物の家畜化が、世界の9地域で独立して発生した。その中で最も初期に発生したのは、肥沃な三日月地帯と中国の一部である。この図から明らかなように、農業として知られるこれら食糧生産の最初の中心地は、今日最初の中心地は、今日最も生産量の高い成果の「穀倉地帯」とは、ほとんど相関が認められない。この図から明らかなように、農業として知られるこれら食糧生産の最初の中心地は、今日最「穀倉地帯」とは、ほとんど相関が認められない。ダイアモンドは、植物の栽培と動物の家畜化は、たまたま生物地理学的条件に恵まれていた幸運によって、これらのわずかな地域から発生したと主張している。世界の高等植物200,000種程度の野生種のうち、これまで栽培化に価値が認められたのは僅か約100種のみである。同様に、世界の148種の大型哺乳草食性動物および雑食性動物のうち、1万年の間に家畜化に成功したのは僅か14種である。農業の発生地は、「単に、最も多く最も価値のある家畜化または栽培化しやすい野生の動植物種が在来種であった地域」であった。
肥沃な三日月地帯:コムギ、オオムギ、エンドウ、マスクメロン、オリーブ、ヒツジ、ヤギ
中国:コメ、雑穀、ダイズ、アサ、ブタ
中央アメリカ:トウモロコシ、インゲンマメ、カボチャ、ワタ、ターキー
アンデス山脈:ジャガイモ、アオイマメ、ピーナッツ、サツマイモ、ラマ
西アフリカ/サヘル:ソルガム、ササゲ、スイカ
米国東部:アカザ(ホウレンソウ)、カボチャ、ヒマワリ
ニューギニア:サトウキビ、ヤムイモ、タロイモ

10.この紳士から「フン族のアッティラ大王」を連想するにはほど遠いが、ジャレッド・ダイアモンドは、「過去13,000年の歴史は、狩猟採集社会が農業に適している世界のあらゆる地域の農業社会により排斥され、蝕まれ、制圧され、あるいは根絶されてきた物語から成る」と述べている。次の10,000年間は、耕作民は自然の微生物による肥沃リサイクル機構を制御することで十分だった。焼き畑農業が行われ、動植物性肥料を使用し、休耕とローテーション技術をもって食物を得、貯蔵可能な余剰分の食料を生産した。われわれを今日までの耕作民として成功へ導いたのは、主に望ましい形質を得るために動植物の選択を繰り返し、耕作技術と組み合わせて動物の力を利用したことであった。これらの原始的な農業技術を入念に仕上げたことにより、主に穀物を主食とする食習慣で、より複雑かつ大規模な定住性集団を養うことが可能になった。

11.良心を持つ多くの人びとが、現代の動物による農業から菜食主義に逃れる今日、人類の家畜との親密な歴史について学び、評価するのは賢明なことである。ちょうど今日、人がペットの猫や犬と同じ家に住むのと同じように、過去1万年にわたり多くの人びとは、肉やミルクをもたらす家畜の生活場所の近くで動物たちと生活を共にしていた。多くの感染症とその結果獲得した免疫は、農業史以前のヒトには知られていなかったが、家畜動物種との親密な関係から生じたものである。実際、予防接種(vaccination)の語源は、ラテン語の雌牛にあたる"vacca"に由来している。これらの動物との繋がりが、南北アメリカに侵入したヨーロッパ人の持つ病原菌で、銃を使うよりもより早くより多くの先住民の命をうばった原因である。われわれと共に進化した動物の仲間は互いを種としてうまく成功してきた。最近の慣行化した産業によって、悲惨にも破壊されたこれまでの深い尊敬の念を再燃させ、これからも共生していくことが必要である。

12.「Survival of the fattest(肥満者生存)」は、巧に言い換えられた名句であり[訳注:survival of the fittest(適者生存)をもじったもの]、ホモサピエンスが「大きな脳」にある知能を養うために、特殊な脂肪酸へ固有に依存していることを述べるために考え出された本のタイトルである。海草や植物プランクトン、また陸上の緑の葉や草は、これらの脳に不可欠で特異的な栄養素が得られる必須オメガ-3脂肪酸を産生する。海洋藻類は重要な摂取源であるが、本来草を食べるようデザインされた反芻家畜動物もまた、これらのオメガ-3脂肪酸に重要な関わりをもつ。ただしそれは、その動物たちが属する牧草地で飼育される場合のみである。現代の脂肪に対する一般的な嫌悪感は、ヒトの進化史を無知に否定するものであり、行動の根拠とするには危険な概念である。真の問題は、我々が消費する食物中の脂肪の種類と品質である。

13.20世紀の初めに、現在あまり知られていない2名の化学の魔術師が、現代の高収量農業に広く門戸を開け、ヒトの食料生産史の全軌跡に影響を与えた。窒素は、地球の大気圏の78%を占めているが、生物が利用できる「固定」型は、自然によりほんの少しずつ供給される。大気窒素の僅か1%のみが、無限に長い年月をかけて豆科植物の根の上に宿る特殊な根瘤菌によって生物に反応する形態に「固定」されてきた。フリッツ・ハーバー(Fritz Haber)は、このバクテリアの奇跡を実験室で再現し、1908年には、鉄触媒と組み合わせ高圧と高温をかけることにより、窒素ガスをアンモニアへ合成する基本的なプロセスを発見した。この人工的な手法は、1930年にドイツの化学者仲間のカール・ボッシュ(Carl Bosch)により多量に生産できるようにさらに開発が進められた。これは、ヒトの暮らしに恐らく最も大きな影響を与えた20世紀の発明として、この2名にノーベル賞が授与された。

14.ヒトは、生物学的および工業的プロセスの両方を操作して、現在地球の自然生態系が固定する量の2倍の窒素を毎年合成または固定している。世界中でハーバー・ボッシュ法により固定される全アンモニアの4分の3が農地に利用されるが、生育する作物に取り込まれる量は極少である。残りは、周囲の環境へ流れ、そこで環境や人びとに重大な害をもたらしている。

15.現在の世界人口70億人の半数は、まさにその存在を、1世紀前に発明された重要なハーバー・ボッシュ法による要素に負っている。最近の三世代にかけて起こった人口の激増の説明としてよく引用されるのは、疾病の細菌説、あるいは公衆衛生と抗生物質の進歩である。しかしながら、これらの人々に食料が与えられなかったら、ここに存在していないことになる。その頃、現在あまり知られていないもう幾人かの天才達が、この影響に重要な役割を果たそうとしていた。

16.ハーバーとボッシュと同時代で、アイオワ州のコーン畑に囲まれた有名な農場ジャーナリストの家族に生まれ、その生涯を通してアイオワ州の特産農作物に魅了された人物が、ハイブリッド革命と特異な政治的キャリアを進めようとしていた。青年時代にジョージ・ワシントン・カーヴァー(George Washington Carver)の指導を受けたヘンリー・アガード・ウォレス(Henry Agard Wallace)は、当時の顕著な植物育種家の草分け的な業績を熱心に学び、トウモロコシの交配を行った。彼は、この有望な新種の仕事に妻の少ない遺産を賭け、中西部の農業従事者へ独自の交配種子を自家用車で販売してまわった。決意、才能、勤勉さを持って事業を推進したウォレスは、パイオニア・ハイブレッド種子会社を設立し成功を収めた。ヘンリーの死後、この会社は数十年経って100億ドルでデュポンへ売却された。

17.ウォレスは、その当時最も生産性の高いトウモロコシを交配した。続いてその優れた技術をもって、雌鶏の産卵能力を同様に改善させたが、彼はそのような進歩は万人に与えられるべきものと信じて、彼の生物学上のいずれの新技術も特許にしようとしなかった。

18.ウォレスは、忽ちその能力をフランクリン・D・ルーズヴェルトによって認められ、ルーズヴェルト政権の最初の2期にわたり農務長官を務め、主にニューディール農業政策の整備に関与した。ウォレスは1940年の選挙で取り乱していたルーズヴェルト大統領のために首尾よく選挙戦を戦い抜き勝利をもたらし、後に副大統領に任命された。就任式の前に気を落ち着かせるため、彼は妻アイロと共に緑のプリマス・セダンで、メキシコのほぼ全長を車で旅行した。その間、土壌に馴染みの深い副大統領は、行き当たったほとんどすべてのトウモロコシ畑を歩き回った。帰国した時には、メキシコの農業の低生産性を向上させ、飢えている人々の苦痛を緩和したいという命がけの望みに捕らわれていた。彼が帰国後実行したフォード財団やロックフェラー財団への働きかけにより、すべての耕作者の運命を左右する結果がもたらされた。

19.ロックフェラー財団は、早期農業改良指導員として、また植物病理学者として教育を受けたアイオワ州の農家の青年を1943年にメキシコへ派遣した。この若い理想主義者のノーマン・ボーローグ(Norman Borlaug)は、自ら経験した不況の悲惨さと「ダストボウル(Dust Bowl)」[訳注:1930年代に砂塵嵐の被害を受けた米国中南部の大草原地帯]の状況に深く心を痛めており、コムギを含めたメキシコの穀物生産の改良という、その当時困難な任務を承諾した。

20.コムギは、集約作物というよりむしろ粗放作物と考えられており、肥料はほとんど使われず、その結果重い穀粒を支える長い茎が、倒されたり倒れたりして収穫高を下げたり収穫を困難にしていた。ボーローグは、戦後の廃止された軍需工場で生産される安価な肥料が供給過剰であることに気付き、丈を低くし、コムギの収量を劇的に増加させることに着手した。彼は、日本種の矮化遺伝子を使って、アメリカ産小麦と交雑し、様々な気候に広範囲に適応し害虫や病気に対して遺伝的抵抗性を持つ品種を選択していく作業に取り掛かった。

21.アジア米の仕事をしている他の財団の同僚らが、ボーローグの先導に続いた。1960年代の初期までに、彼の「奇跡のコムギ」と彼らの「奇跡のコメ」は、後に世界的な「緑の革命(green revolution)」として知られ、大量の食料を生産した。近代農業の最も強力な高収穫技術を発展途上の世界へ伝えることにより、ボーローグと同僚らは、40年間に世界の穀物生産高をほぼ3倍に上げ、10億人もの命を飢餓から救ったと称賛されている。ボーローグは、1970年に受けるに値するノーベル平和賞を与えられた。彼は18か月前に95歳でひっそりとその生涯を閉じたが、彼の利他的な生涯の業績は論争を呼び、現在ではやや影がみえる。

22.このレポートのタイトルが示唆するように、「良いことをすると必ず罰を受ける」。作物生産はここ半世紀以上をかけて高収率を達成してきたが、栄養素の密度を失ってしまったことを示す証拠が次々と挙げられている。急成長によって、さらに大きく多量に生産できる果物および野菜は、栄養素濃度が低下する傾向がある。この現象は1980年代初頭、科学者らによって「希釈効果」と名づけられた。

23.従来の営農法に共通した高濃度の可溶性窒素は、その他の栄養素の濃度や風味を低下させ、しばしば害虫や疾病に弱い農作物をもたらす。上記のUSDAの長期間にわたるデータは、英国と同様な長期的なデータを比較することによってさらにその事実が裏付けられた。高収率をめざす農業により、食糧不足の世界に安価なカロリーが大量に供給されているが、消費カロリー当たりの栄養素は少ない。

24.有害物質を除去し、刺激性のある窒素の流入を最小に抑え、土壌を生物学的に強化する有機農法は、従来の生産方法と比較して特定の栄養素の産生において利点があるようである。堆肥、コンポスト、あるいは有機物が分解される際に生じる栄養素など、安定してゆっくり栄養を与える肥料で育てられた作物は、大量の可溶性化学肥料を定期的に与えられる植物より、高濃度の栄養素を蓄積する。

25.合成窒素およびリンを使用すると、これらの物質が水路へ流れ、その結果海域や河口で濃縮するという予期せぬ結果が生じる。流出した栄養素は、ここで藻類の大発生を引き起こし、水中の食物連鎖を覆す。死んだ藻類は沈み、それらを分解する微生物がそこに溶存する全ての酸素を消費し、他の海洋生物をしめだす。現在までに世界中で400ヵ所の「酸欠海域」が発見されている。

26.有機農法と従来型農法で生産された生の作物を中心にした食物65組を使って、ミネラル、リンおよびカリウム量を比較したところ、34の有機農法の試料でミネラル含有量が高く、一方で29の試料では従来型農法の試料の方が高かった。その差は、どちらかといえば取るに足らない程度であった。

27.従来の営農法では、すぐに利用可能な窒素は光合成により産生される糖分を転換させ、より多くのタンパク質を産生し野菜の急成長を促す。一方、有機農法では、ゆっくりと長い時間をかけて窒素が供給されるので作物が急成長することはない。そのため、光合成で産生された糖分は、より多くのビタミンCや、他の健康を守る抗酸化剤、風味を強化するポリフェノールの産生など他の代謝機能に利用できる。これらの作物のビタミンに関する差をみると、本質的には有機農法の試料の方がよい傾向にある。

28.抗酸化剤について言えば、有機食品サンプルを支持する結果が、従来型食品に対して3:1で優勢である。興味深いのは、単に勝敗を並べて比べることより、差があった場合その違いの大きさを調べることである。高い栄養素濃度のものは、その差が20%-50%あるいはそれ以上と大きく、圧倒的に有機農法試料の方が優勢である。

29.草食動物が草食動物としての草を食べる有機農法は、栄養上の利点があることも確認されている。

30.牧草地で草を食べる雌牛のミルクは、最近になって発見された共役リノール酸脂肪酸と呼ばれる抗酸化、抗発癌性および免疫を高める特性を有する脂肪酸を5倍産生する。放牧による牛のミルクおよび肉(鶏肉を含む)も、オメガ-6脂肪酸に対するオメガ-3脂肪酸の比率が大幅に増加している。

31.T&Dウィリー・ファームでは、遺伝学者ウェス・ジャクソン(Wes Jackson)の「われわれは自然の複雑さに関する知識が豊富でなく、むしろ10億倍も無知である」と主張する「無知に基づく世界観」に共感している。

32.土壌生態学者、イレーン・インガム(Elaine Ingham)は次のように教えている。「たった一握りの健康な土には、何十億から何千億もの土壌微生物が宿っている。そのたった一握りに、何千もの異種バクテリア(それらの大部分はまだ分類されていない)、何百もの異なる菌類や原生動物、数十の異種線虫、さらには様々なダニやその他の小型節足動物がいるかもしれない。これらの無数の土壤生物のほとんど全ては、有益なだけでなく土の持つ、生を与える特性にとって不可欠である」。ジャクソンの忠告に常に留意し、信頼する従業員と同様に、私は自分が農業従事者として達成したあらゆる成功に大きく貢献しているこれらの貴重な「目に見えない」仲間、即ち私の土壌中に生きる家畜たちを絶えず世話して、これらを養っていく。

第8回北里大学農医連携シンポジウムの内容:6.現代医療からみた農医連携の必要性
平成23年4月20日に開催予定であった第8回北里大学農医連携シンポジウム「農医連携の現場:アメリカ・タイ・日本の例」のうち、演題「現代医療からみた農医連携の必要性」を紹介する。残りの演題については、次号以降に順次紹介する。

現代医療からみた農医連携の必要性
 
エムオーエー奥熱海クリニック院長:佐久間哲也

はじめに
20世紀における科学技術の爆発的な発展は、資源の枯渇、環境破壊、慢性疾患の増加など数々の問題を生じた。このため、有限の資源のもとでQuality of Lifeを保ちながら人類がいかに持続的に存続できる社会を構築するかが、歴史上の課題となっている。日本学術会議によれば、科学者はその解決を国家から迫られ、2002年「日本の計画(Japan Perspective)」の中でメタ・パラダイム転換とも言うべき知の再編に向けて統合的有機的連携を推進する提案をしている。それにより、文理融合や俯瞰型研究や産官学連携が盛んになり、サスティナビリティ・サイエンス・コンソーシアムの設立など一定の成果をあげつつある。

現代日本の健康問題
医学や農学は実際生活に即した実学の代表選手であり、社会的問題状況と不可分であるはずだが、学問としての目覚ましい進歩とは相反して人・食・土の病気はますます深刻化している。特に医療の現場に上がってくるガン・生活習慣病・うつ病などの有病率は急上昇し、それはそのまま医療費・介護難民・がん難民・自殺者の増加に反映されている。これらは氷山の一角に過ぎず、青少年では不登校・引きこもり・いじめ、働き盛りではメタボやメンタルヘルス不調、高齢者では孤立化・認知症・寝たきりなど各年齢層に解決不能な問題が山積している。多くは少子高齢化や不況など社会状況に起因するものの、現代日本の健康問題として大きくとらえることができる。

医学と医療
医学の実践場所は主に医療ではあるが、経済システムとしての保険診療枠という規制がある。これは医療の質(科学性・安全性・効率性・倫理性)を守る働きをしている。昨今、科学的根拠に基づく医療行為を進めるためにEBM(Evidence-Based Medicine)という考え方が導入された。医療者個人の経験値による診断・治療では医療の質を守れない可能性があるからだ。

一方、慢性病の増加は国や自治体の財政を逼迫させる可能性があり、社会は健康増進・予防医学に力を入れたいが、これらは保険診療の対象ではないために医師の協力を得られることはまれである。そこで国は食育・有機農業・がん対策・自殺対策・メタボ対策・農山村活用などの数多の法整備によって医療枠外で問題解決を模索している。

更に、科学技術の後ろ盾を得た医療も順風満帆とは言えない。費用対効果の低さ、地域医療や産科小児科医療などの不均衡、薬害や医療過誤による訴訟、QOLや緩和ケアへの苦手意識など喫緊の課題を抱えている。

農医連携の今日的な意義
本来、医学は医療の枠を越えて人間や社会全体の健康を永続的に増進させる大目的がある。現代では単なる理念で済まされず、現実的な責任として問われているが、それに応える学問体系はまだ生まれていない。

一方、農学も大目的は同じであり、環境保全や健康被害への対策で一歩先んじて意識転換がはかられつつある。農と医の対象である農作物・土壌・人間は自然環境に包含される複雑系であり、閉じられた研究システムの結果を応用しても期待通りの効果を発揮しにくいという共通点がある。そのため農医連携は本来の大目的を果たすために農学と医学に自己改革を促し、新たなパラダイムを生み出すことが期待されている。

特に、北里大学の提唱する農医連携は机上の学問に終わることなく、人類史的課題を「分離の病」として見据える哲学的な視点を共通認識として、時代の要請に積極的に応えようという強い意志が感じられる。

当院の農医連携活動
当院が農医連携の現場として取りあげられた理由は、有機農業実証展示圃場の大仁農場と同じ敷地内にあり、無農薬無化学肥料の作物や田畑が身近にある稀有な環境だからだ。

昭和57年開設の大仁農場では静岡大学農学部名誉教授ら、農学の専門家を中心に有機農業の科学的研究を進めてきた。昨今では環境保全型農業への理解の高まりとともに、国や自治体との連携事業が活発化している。また、大規模な花苑は一般市民に公開され、化学物質過敏症患者さんの憩いの場ともなっており、開かれた社会資源として認識されてきた。

本来の目的は健康で持続可能な社会(SOHAS: Society Of Health And Sustainability)づくりであるため、平成18年に自然順応型健康法を中心とした健康増進施設が開設された。同時に別運営の保険医療機関を併設し、内科・心療内科診療をスタートさせている。農協関連病院赴任時から農村医学に興味を持ち始め、農場産業医の立場でヘルスプロモーションの野外研究をしていた私が院長として就任した。

農医連携の具体的実践としてあげられる有機農産物や日本型の食養生、農作業や園芸療法、森林療法や転地療養、そして動物介在療法などをここでは自由に受けることができる。これらの健康法は観光・教育・福祉の現場で実践可能であっても、日本の保険医療としては認められていないため医療現場に導入されがたい。こうしたアプローチをクリニックで提供することは混合診療禁止に抵触する恐れがあり、症状改善に寄与したと思われる症例に遭遇することがあっても、計画的にエビデンスを積み上げていくことは難しい。

しかし、当院では開院以来、メタボ保健指導、企業・自治体のメンタルヘルス産業医、静岡県子どものこころ相談医、自殺うつ対策事業など、地域社会や農場からの要請に応える形で保健予防活動の来院者を積極的に受け入れているため、農医連携が少なくとも地域社会の健康問題解決の糸口になる可能性を感じている。また、農場の自然環境を生かした方法で不登校や発達障害の問題解決に取り組んでいるフリースクールがあり、管理医として対象者の診断やカウンセリングを行ってきた。昨年、日本青少年育成協会の教育コーチング認定校となるなど、その業績は社会的にも一定の評価を得ている。

今後の展望
大学研究・厚労省班研究・先端医療・地域医療・学校衛生・労働衛生・健康増進と様々な分野に携わり、国内外の農医連携活動を実見することで、次のような個人的見解を持つに至った。つまり、西洋医学によるEBMと数千年の歴史を持つ経験重視の伝統医学EBM(Experience-Based Medicine)の二つを止揚して、社会や人類全体を健康にする俯瞰型EBM(global EBM)へ発展させる必要性の実感である。

明治政府が招聘したドイツ医師エルヴィン・フォン・ベルツ博士は近代医学の確立に多大な貢献をしたが、日本古来の食や伝統医学を保護し、研究対象とするように政府に働きかけている。健康医学や家庭医学などをいち早く提唱した炯眼の持ち主だけに、単なる異国文化への興味ではなく、将来の科学的証明を期待していたと思われる。

同様に、自然尊重・身土不二・医食同源・心身一如などの哲学が、科学の未発達な部分を補完し、その暴走や行き詰まりを防いで人類を正しく導く可能性がある。特に「分離の病」の視点は卓見であり、この哲学のもとで科学性・安全性・効率性・倫理性を確保しながら、産官学民の協働によって農医連携活動を推進することで、小さな地域社会単位で健康問題改善のエビデンスとSOHASへの具体策が得られるのではないだろうか。更に、こうした知見が農医連携学の礎となり、知の再編がはかられることを大いに期待している。

土壌と健康 2.アースイーター:古代と近代の食土に関する見解(その2)
この稿は「情報:農と環境と医療 61号」の「アースイーター:古代と近代の食土に関する見解(その1)」の続きである。前項では「はじめに」「古代」「中世」「16、17、18世紀」について記載した。今回は「19世紀から現代まで」を紹介する。

19世紀から現代まで
早い時期に書かれた海辺における食土に関する報告は、旅行者で自然主義者のJacques-Julien Houtou de Labillardiereによって行われた。彼は1791年から1793年にわたって南海を航海した(Laufer 1930)。ジャワの村々を訪ねたとき、もっぱら食べるために作られている小さな四角の赤い鉄分を含んだ粘土の平たいパンをみつけた。一方、ニューカレドニアを訪れたときは、地元民が握り拳二つ分ほどの大きさで、粘土が豊富に含まれた軟らかいものを食べていることを報告している。

探検家、旅行者、人類学者、宣教師、植民地の医者は、19世紀を通じてアメリカと熱帯における食土の状況を報告し続けた。間違いなく最も偉大な19世紀の二人の探検家であるAlexzander von HumboldtとDavid Livingstoneは、どちらも食土とその習慣の様子を報告している。

Humboldtは、世紀の変わり目にアマゾン流域のオリノコを旅行し、異常な生理現象をもつオトマック族について記述している。彼らは土壌を食べる。すなわち、数ヶ月間、毎日、かなりの量をそれも空腹を和らげるために食べる。そして、この習慣は彼らの健康になんら有害な影響を及ぼさない(Keay 1993)。オトマック族は明らかにある種のタイプの粘土を好む。それは油分の最も多い土壌で、手触りがなめらかなものである(Keay 1993)。洪水で魚がとれない時は、24時間に3/4~5/4ポンド(約0.34~0.57kg)の粘土を消費する。

土食症は、Humboldtによって発見された他の部族の間でも普通に認められる。そこでは健康に有害ないくつかの証拠があるが、女性から子供、さらには成人の男性までが土壌に対して逆らえない食への欲求に満ちている。

食土による健康障害は、ザンビアの「粘土や土を食べる病気:サフラ(safura)」についてコメントしているLivingstoneによって、1870年に明らかにされた(Waller 1880)。サフラはしばしば奴隷や妊婦に影響を与える。彼らは建物の壁の粘土を好む。Livingstoneは、サフラを診断するため指の爪を圧縮する方法を考案した。サフラ患者は爪の下に血赤が現れず、血の気のないことが原因であると述べている(Waller 1880)。それは貧血である(Loveland他 1989)。

このような症状の病気については、19世紀の文献にもアフリカの悪液質(慢性疾患と関連して起る衰弱:cachexia Africana)、またはフランス語で胃の病気(mal d'estomac)として記述されている。この病気は、アメリカの奴隷の間ではとくに食土と関連している。医学的症状は、Carpenter(1844)、Cragin(1836)およびMason(1833)によって詳しく述べられているが、Mengelら(1964)は、怠惰な精神過敏症で筋肉がかなり弱り倦怠感があると、簡易化した表現をしている。アフリカの悪液質と食土との関係については、文献からは確かな情報は得られない。

Mason(1833)は、土壌の摂取がこの病気の原因であるとは考えず、むしろ病状の結果と考えている。同じように1825年、イタリアの医者Cesare Bressaがこの病気については、ルイジアナで毎年発生し数百人の奴隷が死んでいる壊血病の変性(scorbutic degeneration)と呼んで、その内容について記述している(Mustacchi 1971)。当時、彼は病気の起源は栄養的なものであると結論付けたが、今日ではビタミンB欠乏に起因する湿性脚気と診断されている。回虫病に関連する胃の痛みを取り除くために、土壌を摂取する症状が原因のようにもっともらしく説明されているが、回虫の蔓延に関連している。

多くの著者(例えば、Feldman 1986; Mengel他 1964; Severance他 1988)は、食生活で粘土鉱物によって鉄やカリウムを吸収することで、食土がどのようにIDAや低カリウム血症(血液中のカリウムの異常な低濃度)を起こすかを報告している。19世紀のアフリカの悪液質の記述に似た症状を起こす。

食土がアフリカ悪液質の原因または結果のどちらであるにもかかわらず、病気は公衆衛生と経済にとって重要であることに違いはない。ニューオリンズ近辺で奴隷の間で死をもたらす黄熱病の研究に取り組んだ(Mustacchi 1971)ブレッサは、食土による病気の誘因、仕事の回避、自殺の回避などを防止するため、丁度19世紀の同時期の多くの作品に描かれているように、奴隷の所有者に荒治療(治療し、足かせをつけ、床にくさりでつなぎ、金属のマスクやマウスピースなど)を導入するよう提案した(MacClancy 2007)。

そのような方法はある程度成功すると、戦前の医者であるCarpenter(1844)が書いている。このとき医者は、南西州の貧しい白人たち、とくにカロライナとジョージア州(Twyman 1971)では、食土が共通の習慣であるという証拠がある(Lyell 1850)にもかかわらず、食土は主に黒人に制限されたものと考えた(Haller 1972)。20世紀の初期だけにみられた貧しいカフカス人の土壌摂取が、回虫病のせいであったことが明らかにされた(Buck 1925)。

食土は多かれ少なかれ黒人に限定された現象であるという19世紀の白人医師の信念は、これまでヨーロッパでは食土の習慣が珍しいという認識に後押しされていた。薬局から徐々に土壌の薬剤が姿を消し、薬として重要な働きをするテラシグラタ(terra sigillata)が1848年に姿を消した(Gray 1848)。

19世紀にヨーロッパで出版された医学論文に、たまに食土の報告がみつかる。例えば、宗教上の動機(Foot 1867)や胃の苦痛を楽にするために(Ducks 1884)、様々な集団の子どもたちが土壌を摂取するという報告がある。一方Volpato(1848)は、イタリアの下層階級の子どもたちの多くが、食土を含む異食症にふけっていることを記載している。ここでは、この挙動を下劣、異常、異例とするコメントが掲載されている。今日の文献でもしばしば表現されているこの種の感情が、この時代にもあったことを物語っている。

しかし、19世紀後半にはドイツの自然療法医により粘土を内服することが復興した(Dextreit 1994)。法医学者、Julius Stumpf(1956-1932)はこれを引き継ぎ、1906年にはアジアコレラや他の下痢・嘔吐を伴う疾病の治療薬に粘土の使用を推奨した(Robertson 1996)。さらにAdolf Just(1859-1936)は、1918年にLuvos会社を創設した。この実在の会社は、土壌を粉にしてカプセルを作り、消化不良や下痢のような胃腸調整剤とした。この会社は、自然の土壌を薬剤として供給する会社のひとつであった(Luvos 2007;Knishinsky 1998)。

20世紀になって、土壌を自然療法に使用することにより、これらの資材が薬局で再び売られるようになった。Martindale(1993)は、例えば下痢の対処療法で使用される吸収剤としてのカオリンの使用、不調な胃腸に使われるスメクタの原料としてのスメクタイト粘土、パラコート(除草剤)中毒の治療に使われる土壌やベントナイトなどの例を挙げている。

旅行者と植民地の労働者や医者は、20世紀までの食土についての記録を続けている。例えば、George Watt(1908)はインドで医学的に食べられる淡黄色の土についてコメントしている。それはmultani mittiの名で売られている。ニアサランド(今のマラウィ)の多くの部族では、授乳中や妊娠中の女性は、食土の習慣が恥ずかしいためこっそり食べている。それは、蟻塚でみられるカルシウムの豊富な土壌である(Berry and Petty 1992)。調査によれば、カルシウム欠乏と考えられる。ニアサランドでは、おそらく最大一日あたり100gの土壌を食べる。

ボルネオの北部の西マレーシアのサバ州では、ほとんどすべてのひとが今もモンモリロナイト粘土を胃痛の治療薬、授乳中の母親の強壮剤、長旅のスタミナ食として食べているという報告がある(Collenette 1958)。

南ローデシア(今のジンバブエ)で働く軍医のMichael Gelfand(1945)は、100人の男性患者に土食について質問し、そのうち31人が様々な理由で食土を習慣としていることを明らかにしている。理由は、土壌は甘くておいしく、食べると強くなり、子どもがたくさんでき、トウモロコシの食事の付け合わせによく、飢饉に陥らないことにある。

食土を扱った20世紀の詳細な情報のほとんどは、例えば地球環境科学(すなわち土壌科学、地球化学)、地理学、医学(すなわち伝染疫学、血液学、栄養学、産科学、小児科学、薬理学、神経科学)、社会学のような問題を解明する雑誌に数多くみられる。したがって、食土の研究課題は実に複合的な研究領域に関わる。しかし文献に報告されている事実は、むしろある時代のある期間、詳細に徴されたある特定の地理的領域(とくにアメリカとアフリカ内部のある地域)について、ほんの一握りの著者によるものである。

食土はアフリカ系アメリカ人が、アメリカの内戦が終わり解放された後、生活の質を全般的に改善し、魔術師(占い師)の影響を拒否し、キリスト教を信心することが増えるとともに止めていった習慣であると、一般的には考えられている(Haller 1972)。戦後は、報告書にあるようにアメリカ合衆国での食土の習慣は、約3/4世紀の間南部の白人によってわずかに行われていた(Anonymous 1897)。しかし、1940年に開始された数多くの重要な調査によれば、南の州の多くでこの習慣が普及していることが判明した。

ミシシッピーの田舎で、アフリカ系アメリカ人学校の子ども207人を調査した結果、25%の子どもが最近土壌を食べたことが明らかになった(Dickens and Ford 1942)。鉄分が豊富でない食べ物を取る集団に、食土の習慣がしばしばみられる。Hertz(1947)は北カロライナの女性の食土の習慣について、次のようにコメントしている。すなわち、「よい土」の袋が勤務先でよく購入されているということ、特定の地域の川べりから得られる粘土の豊富な土壌がよく求められていることを例えにあげている。

ときどき、粘土のかわりにデンプンが使われる。Hartz(1947)は、"多くの黒人と多少関わった人びとが、粘土とデンプンが一部の黒人文化の世界で食べられているか"と記述している。

一連の雑誌の内容によれば、Edwardsとその同僚はアラバマで食土の習慣にふける女性の数を定量化し(アンケート調査に答えた55人の58%:Edwards他1954)、消費する土壌の量を見積もった(6-130g/day: Edwards他 1959)。粘土を食べ求めるための様々な動機が、Edwardsによって提示された(1964)。妊娠期間中の伝統的習慣としての使用を含め、胃を満たす、食欲を刺激する、休養を助けるなどが食土の動機であった。

O'Rourkeら(1967)はジョージアの産科で働いていたが、無作為に選んだ200人の患者の55%が粘土やデンプンを摂取しており、一日の粘土の摂取量は2~650g(平均50g/day)の変動があることを明らかにした。VermeerとFrate(1979)は、ミシシッピーの田舎にあるHolmes郡のアフリカ系アメリカ人が露出した土壌B層の50~130cmの深さに集積した粘土を採掘していることを記述している。そこから採取された土壌は、味わいを高めるため焼くまえに酢や塩を混ぜる。女性(調査の57%)と子ども(16%)は、平均すると毎日50g程度の土壌を摂取していた。その習慣は、調査した範囲では大人と青年期の男性には認められなかった。

VermerとFrate(1979)は、北部の都会に移民したアフリカ系アメリカ人が、Holmes郡から北の大都市へ土壌をどのように運ぶかを記述している。ニューヨークのAlbanyで研究しているHook(1978)は、北では南に比べて妊婦の土壌への欲求がかなり異なることを明らかにしている。Albanyでは、250人の母親のうちで食土に熱中していたのは、たった一人であった。

Hook(1978)は、南北の普及の違いは文化的、地域的、地理的な違いに由来するものであると考えた。Edwardsら(1994)によるもっとも最近の研究では、ワシントンD.C.のアフリカ系アメリカ人の妊婦553人のうち8.1%に異食症が発見されたが、土壌を摂取する者はいなかった。これは世代の違いが原因していると考えられる。若い女性は、いまでは妊娠中にデンプンのような満足な栄養源が簡単に探せるので、アメリカ南部の粘土に対して防備できる状況にある。実際には、アメリカ南部の食土でさえ、都会化や近代化によって減少していることは明らかである。なぜなら洗濯糊とふくらし粉が代替品になるからである(Frate 1984)。例えそうであれ、食土はアメリカ合衆国において妊娠中の異食症の代表的な症状であり続けていると、Hornerら(1991)は記述している。妊娠中に体に危険性が高い女性(黒人や田舎に住む家族がこの習慣に肯定的である)の20%が、まだ食土の影響をうけている。

この60年間にアメリカ合衆国で行われた食土に関する調査は、アフリカ系アメリカ人社会に関わるものである。白人集団に焦点を当てた調査はほとんどない。Vermeer(1986)は、白人妊婦の10%以下が食土を認めたと述べ、1940年後半に行われたFergusonとKeatonの調査により明らかになった事項に同意している。また後になって注目されるが、Fisherら(1981)はアメリカ先住民であるアメリカ南西の砂漠地域に居住するインディアンの間で、食土の習慣が広く普及していることを記述している。

メキシコ生まれの女性がアメリカ合衆国に移住し、食土の習慣の文化的移動ともいえる現象を引き起こした(Snow and Jonson 1978)。Simpsonら(2000)は、南カリフォルニアの女性のこの集団間の31%で異食の流行があることを報告している。Simptonら(2000)は,メキシコにおいて異食が高い普及率(44%)にあることを報告している。おそらく、文化の受容性が高いことに起因する。確かにこれは、熱帯地域の多くの国で見られる現象である。

AbrahamsとParsons(1996)は、多くの低緯度国で食土の習慣が広く普及していることを報告している。Mahaneyら(2000)は、インドネシアにおいて普通の土壌を摂取している事実を報告している。熱帯地方における最近の食土の調査が、アフリカで行われた。西ケニアのニアンザ州では、5‐18歳の子どもの間で、73%もの子どもの間で食土がはやっていて、とくに好まれるのはシロアリの土塁からの鉱物である。一日の平均摂取量は、28g(最少8g/day、最大108g/day)である(Geisslerら 1977)。このような土壌の摂取に対する健康上の影響については、西ケニア(Geisserら1998)、ギニアの田舎(Glickmanら1999)、南アフリカの田舎(Saathoffら2002)など多くのアフリカ諸国で調査された。食土は回虫症や鞭虫症のような病気を導くことが明らかになっている。口からはいる線形動物(回虫)は蔓延するので、危険要因として重要である。食土と鉄の養分状態や貧血とに関連する研究も行われている(Geisslerら1998)。ザンビアの学童の調査からは、食土は鉄の吸収に干渉し、この必須栄養素の欠乏を導くという仮定にも発展した(Nichitoら2004)。

上記の児童についての記載例とよく似た調査は、アフリカの妊婦においても実施された。調査された婦人がもつ共通の食土に関する習慣は、ジンバブエ列島ではYoungとAli(2005)によって、ナンビアではThomson(1997)によって、西ケニアではGersslerら(1999)とLuobaら(2004)によって明らかにされた。通常では、毎日数10gの土壌が消費されていると報告されているが、なかでもシロアリ塚や家の壁からとった土壌が好まれている。西ケニアでは軟らかい石も摂取されている(Luobaら2004)。そのような摂取をしている婦人から、Luobaら(2005)によって回虫感染が発見された。一方Youngら(2007)は、ジンバブエにおいては食土による鞭虫属や回虫の感染は明らかでないと結論している。

食土と貧血と鉄枯渇との間に強い相互関係があることは、Geisserら(1998)の研究で明らかにされたが、因果関係については何の推論もしていない。ナンビアにおいて、Thomson(1997)は食土にふけっている妊婦が貧血を起こしていることを発見しているが、土壌の摂取が疾病の病因的因子ではないらしいと結論づけている。

熱帯地方の食土の流行は、これらの地域の人々が最近とみに大規模に開発された国に移住したことと相まって、ヨーロッパにおける習慣と再現の文化的移動を導いた。今まで、これに関する最近の展開についてはほとんど調査されていないが、土壌を輸入し、民族店や市場で売っているイギリスの関与は明白である(Food Standard Agency 2002)。これは明らかに長い歴史と広範な分布をもつ、多くの人々が確かに熱中し必要としている習慣であるが、しかし同じようにかなりの数の人々には知られていない、または無視されている習慣でもある。この項続く

Agromedicine を訪ねる(20):Journal of Agromedicine
以下のことは、「情報:農と環境と医療10号」ですでに書いた。「農医連携」という言葉は生命科学全般を指向する北里大学で新しく使用しはじめたものだ。それに相当する英語に、例えばAgromedicineがある。1988年に設立されたThe North American Agromedicine Consorium(NAAC)は、Journal of Agromedecineという雑誌
とニュースレターを刊行している。

この雑誌の話題には、農業者の保健と安全性、人獣共通感染症と緊急病気、食料の安全性、衛生教育、公衆衛生などが含まれる。Journal of Agromedecineの目次は、これまでもこの情報創刊号から紹介している。今回は、2011年の第16巻の2号の目次を紹介する。

第16巻2号

  • AgrAbility Mental/Behavioral Health For Farm/Ranch Families With Disabilities
  • Underserved Farmers With Disabilities: Designing an AgrAbility Program to Address Health Disparities
  • Agricultural Medicine Core Course: Building Capacity for Health and Safety Professionals
  • Practices in Pesticide Handling and the Use of Personal Protective Equipment in Mexican Agricultural Workers
  • Changes in the Hearing Status and Noise Injury Prevention Practices of Australian Farmers From 1994 to 2008
  • Eye Health and Safety Among Latino Farmworkers
  • Two Unusual Pediatric Cases of Fungal Infections in Farming Families

本の紹介 63:緊急改訂版、「原子力事故」自衛マニュアル、桜井 淳監修、青春出版社(2011)
危機管理という言葉がある。危機は管理できると思っている人が多いような気がする。英語ではcrisisだろう。これは、ある時点の原理またはその時点に支えられてきた全体性や統一性が破れ、何か新しい状態が模索されたり、それに移行したりしたとき、この事態を連続の切断という否定的意識でとらえた言葉だろう。

したがって、発生した危機は管理できないものだろう。危機管理が大事だという危機管理とは、危機が発生したあとの具体的な手順の問題をいうのだろう。それには、まず危機を特定し、評価し、理解することだろう。そのあとに対応と情報の管理が待っている。もっとも悪い危機管理は、十分な理解をしないで稚拙な対応と制限のない情報を流すことだろう。流された国民はたまったものではない。今回の原発事故の処理には、この稚拙さが目立つ。

そんなときに、本書は役立つ。自衛マニュアルである。逃げ込むならどんな建物が安全か?屋内退避した時、まず第一にすべきことは?事故現場から何キロ以内だと危ない?必ずチェックすべき天気予報の重要事項とは?外に干していた洗濯物はどうする?非難する場合どんな服装がいい?移動するなら昼と夜、どちらが危険が少ない?安全な水と食糧はどこで判断する?事故の後に雨が降りだした時は?母乳と粉ミルクどちらが安全か?など。

今回の東京電力(この言葉の記述を忘れてはならない)福島第一原発事故は3月11日当初「レベル5」と報告されたが、原子力安全・保安院は4月12日にこれを「レベル7」に変更した。これについては、専門家の間でも様々な意見の違いがあるが、本書の監修者である桜井 淳氏は「原発はチェルノブイリ以上の事故を引き起こす可能性もある」として、「レベル8」あるいは「レベル9」程度までの尺度も設けるべきであると説いている。

この本が役に立つような危機がこないことを期待する。しかし、この本には人びとを原子力災害から救う59の方法が実にわかりやすく解説されている。

本の紹介 64:生きもの異変‐温暖化の足音‐、「生きもの異変」取材班、産経新聞社(2010)
本書を紹介している筆者が、地球温暖化の問題を取り上げ、温室効果ガスであるメタン(CH4)と亜酸化窒素(N2O)の発生源とその発生制御技術に関する国際シンポジウムを筑波で開催したのは、今から19年前の1992年だ。その成果を書籍「CH4 and N2O: Global Emissions and Controls from Rice Fields and Other Agricultural and Industrial Sourcese」と題してYokendoから世に問うたのは、その2年後の1994年のことだ。

シンポジウムの3年前の1989年には、筆者を含め上述したシンポジウムの参加者の何人かがハーバード大学に集まり、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書第1章の原案を作成した。その成果は、IPCCから第1次報告書「Climate Change 1990」と題して1990年に発刊され、世界の研究者に注目されるところとなった。その後、IPCCは第4次報告書まで出版し「温暖化は疑う余地がない」という結論に達した。

2007年のノーベル平和賞にIPCCとアメリカの元副大統領アル・ゴア氏が選ばれたことで、地球温暖化の危機を一貫して訴えてきたIPCCとゴア氏のメッセージは世界に響き、このことによって地球の温暖化問題が世界の人びとの手中に届いた。IPCCの「Climate Change 1990」が発刊されて21年の歳月が経過した。

中国の唐の詩人、劉希夷は「代悲白頭翁」のなかで「年年歳歳花相似歳歳年年人不同」と歌っている。司馬遼太郎は小学生向けの教科書「21世紀に生きる君たちへ」のなかで、つぎのように述べている。「むかしも今も、また未来においても変わらないものがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでがそれに依存しつつ生きているということである。自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう」。

劉希夷も司馬遼太郎も今は亡い。ふたりが「温暖化の足音」が日本のいたる所から聞こえてくる本書「生きもの異変」を読んだらなんと叫ぶだろうか。劉希夷の「年年歳歳花相似」は、「不相似」になった。司馬遼太郎が「不変の価値」といった自然は不変でなくなりつつある。

本書は緻密な調査と文献によって、日本列島の生きものの異変を、沖縄・九州・中国・四国・近畿・中部・関東・東北・北海道にわたって満遍なく紹介する。なお本書は、2008年1月から2009年9月にかけて産経新聞紙上に連載された内容をまとめたものだ。

日本列島に生き続ける生きもので、少なくとも本書に紹介される以下の生きものたちは、温暖化の影響を受けているというのだ。目次に沿ってその生きものたちを紹介する。ブナ・ヒトスジシマカ・サクラ前線・ウナギ・サンマ・紅葉・サナダムシ・レタス・サンゴ・海の熱帯林・奄美アユ・ウミガメのメス化・カタツムリ・ミカンキジラミ・トカゲ・亜熱帯性サンゴ・コメ・カジメ・温州ミカン・エイ・越冬クラゲ・毒ハギ・ギザミ・ツクツクホウシ・アマサギ・オニヒトデ・コケ・凍土・コケ・ブドウ・ライチョウ・オコジョ・リンゴ・コムクドリ・イノシシ・シャコ・スギ花粉・ヒル・ホタル・シュロ・ナガサキアゲハ・チョウ・ヤマアカガエル・サクラ・シカ・マガン・ヤツデ・サクランボ・トドマツ・サケ・サワラ・線虫・松枯れ・マガン・ハイマツ・エゾシカ・ブリ・ナキウサギ・野良イモ・ニシン・スケトウ・アザラシなど。

日本列島の微生物から、土壌から、植物から、動物から、海洋から、天空から痛切な悲鳴が聞こえている。耐性菌による野生生物汚染(ライチョウ)は微生物から、青いリンゴの生産は植物から、凍土の現象は土壌から、大型クラゲの大発生やマイワシの激減は動物から、サンゴの白化はサンゴ虫とその共生藻とから。そして、人間からの悲鳴が聞こえる日は、それほど遠くないだろう。地球温暖化は今や生業そのものに影響を与えている。この本を読むと、「カエルの悲劇」が思われる。

「カエルの悲劇」とは?
●水と熱いお湯を入れた鍋を二つ用意する。●蛙を熱いお湯に入れると、驚いて飛び上がる。●しかし、冷たい水の中にいる状態で、鍋を徐々に過熱すると、蛙は静かなままだ。●蛙は変温動物なので、徐々に熱くなっていくお湯の中では、神経の感覚が失われるからだ。●蛙は熱くなっていくお湯の中で危機を感じず、適応しようと努力していくうちに神経が無感覚になり、完全に煮られて死んでしまう。●迫ってくる危険を知らずに、死んでいく蛙を見ながら、私たちは一つの教訓を得る。●だが、実際に自分たちに迫ってくる危険を感知できる人はそう多くないだろう。

本の紹介 65:人はなぜ病気になるのか‐進化医学の視点‐、井村裕夫著、岩波書店(2009)
著者の井村裕夫氏には、氏が科学技術会議議員のときに何度かお会いしたことがある。筆者が、当時農水省の農業環境技術研究所長や独立行政法人農業環境技術研究所理事長をしていたとき、他の省庁の研究所の所長や理事長と筑波研究学園の研究に関わる諸問題を解決していただきたく、足繁く陳情を重ねていた頃である。氏の人柄の誠実さと頭脳の明晰さが、深く印象に残っている。いつも思うことだが、著者を知っているだけでその本への感心が強まり、文字がその著者の言葉のように頭を駆け巡る。この本の内容は、表紙裏にある紹介文そのものだ。これをそのまま引用したくなる衝動に駆られる。いや、そのまま引用しよう。

「アレルギー、高血圧、糖尿病。高度に進化した人が、なぜしばしば病気にかかるのだろうか。それは生命進化の過程と深く関わっている。その進化の道筋が遺伝子レベルで明らかになりつつあり、その立場から、病気の成因の理解が可能になってきた。本書では、揺籃期にある進化医学の現状を紹介しながら、感染症、免疫疾患、生活習慣病の成因について、進化の視点からわかりやすく解説する」

では、進化医学とは何か。著者の説明はこうだ。進化医学とは、生命の進化という立場から病気の成因や成立機構を解明し、予防や治療への対策を立てようとする学問、というより学問の方法論だ。病気のみでなく、なぜ性が導入され、なぜ生物は死という戦略を採用したのか、など生命現象の理解を深める方法論だ。まだ揺籃期の段階だが、今後ゲノム研究の進歩によって将来有望な学問だという。進化医学は、いままさに黎明期にある。医学がこれまで問い続けてきたことは、主にどのようにして(how)人は病気になるのかで、なぜ(why)という問いの答えではなかった。このようなことが「はじめに」と「序章 進化医学とは」に書かれている。

序章に「病気を理解するためには、生命の歴史のあらすじは知っておく必要がある」という文章がある。この文章の「病気」を「環境」や「農業」に、「生命の歴史」を「地球の歴史」や「食の歴史」に置き換えることができる。農業と環境と健康は連携しているのである。

進化の立場から見た感染症では、新しい感染症対策を始める必要性が説かれる。宿主と寄生体は、長い進化の歴史の中で(36億年)複雑な相互関係を持ちながら共進化してきた。そうした相互関係に、最近の50年間に大きな変化が起こった。ペニシリンをはじめとした多くの抗生物質の開発とその応用である。

その結果何が起きたか。さまざまな耐性菌の出現である。この耐性菌を淘汰するために新たな抗生物質が増加する。それは一種のいたちごっこで、最終的な解決にはならない。われわれは「抗生物質以後の時代」に入りつつある。今後、進化の立場に立って対策を考えていかなければならない。この現象は、農と環境においてもしかりである。農業生産の為の農薬や化学肥料の過剰な使用は、農薬耐性菌の出現や環境の汚染と人体への影響を促進しているのである。

人はなぜ病気になるのか。という問いに対する著者の考え方はこうだ。ほとんどの病気は、遺伝素因と環境因子との係わり合いによって起こる。これは医学的にみて正しい。例えば、感染症はしばしば環境因子による疾患として取り扱われる。しかし、病原体に感染して発病する人としない人がある。発病しても病気の軽重は様々だ。それは、生態防御反応とくに免疫系が個人によって異なることから説明できる。免疫応答には著しい個人差がある。それは主として遺伝的に決定されたものだという。

それでは遺伝素因とは何であるか。それは疑いもなく私たちのゲノムの中に書き込まれた情報である。ゲノムとは、ある生物の持つ遺伝子の1セット全体を言う。人は2倍体であるから、2セットのゲノムを持つことになる。このゲノムには数万の遺伝子(gene)が存在している。ヒトゲノムの解読が進めば、たとえば糖尿病、高血圧、痛風などの疾病の病気の遺伝素因や、免疫応答の強弱が明らかになるだろう。またある病気への罹(かか)りやすさ、罹りにくさも、かなりの程度知りうることになろうと予測している。

この学問では、すべての人に共通であるが他の生物とは異なる遺伝子が注目される。この異なる遺伝子によって人の特徴が決定される。そこには生命進化38億年の歴史が書き込まれており、ここから、私たちの遠い祖先たちが様々な環境に適応した痕跡を読み取ることが出来る。

生物の38億年の遺伝子の変化の歴史は、ゲノムに刻印され、痕跡を消し去ることはもはや出来ない。環境が変化するとかつて有利であった遺伝子が、返って不利になることがあるという。極端に言うと、ほとんどの病気が何らかの形で進化と関わりがあるということになる。

本書はこのような考えで、感染症、免疫疾患、アレルギー、糖尿病、高血圧、肥満、痛風などを進化の観点から説明している。

蛇足:上述した本の他に、「ヒトはなぜ病気になるのか:長谷川眞理子著、ウェッジ(2007)」という本がある。「人」と「ヒト」が異なるだけである。さて、内容にどのような違いがあるのだろう。

*本情報誌の無断転用はお断りします。
北里大学学長通信
情報:農と環境と医療62号
編集・発行 北里大学学長室
発行日 2011年7月1日