「これ我が学問なり」 広報誌「雷(いかずち)」より

先達を仰ぎ、「研究の経営」を通じてさらなる社会貢献のみちを探る
転機はいつも出会いから生まれた

大村智が微生物と「出会った」のは、修士課程修了後、間もない頃のことだ。ぶどう酒の研究で知られる山梨大学の加賀美元男教授のもと、ブランデー醸造の研究を通じての体験だった。以来、天然物有機化学・微生物化学の研究者として歩む中、大村は僥倖とも表せるような出会いを幾つも重ねてきた。

社団法人北里研究所に入所する直前、健康診断で結核の疑いが生じたとき、直々に「異常なし」と診断を下してくれた当時の所長、秦藤樹教授。抗生物質「ロイコマイシン」の構造決定などを通じ、微生物薬品化学への道を拓いてくれた小倉治夫教授。アメリカ留学のきっかけを作ってくれた日本抗生物質学術協議会の八木沢行正常務理事など、大村を導いてくれた恩師との出会いは枚挙にいとまがない。中でも大村自身「人生最大の出会い」として挙げるのは、1971年に留学したアメリカのコネティカット州ウエスレーヤン大学におけるマックス・ティシュラー教授とのそれだと言う。

当時、大村は、大学の教授5人ほどに留学希望の手紙を送り、それぞれから待遇などの条件を提示されていた。その中に、他のほぼ半額という際立って低い年俸を打電してきた人物がいた。大村は「これだけ低いということは何かある」とこの人物を選ぶ。この電報の発信者こそが、ティシュラー教授だった。

北里研究所入所当時。研究に没頭できる嬉しさから、毎朝6時には出勤していた

人生最大の転機となった留学時代、ウエスレーヤン大学のマックス・ティシュラー教授(右)と(1971年)


待っていたのは最高の境遇だった

「何か」はあった。大村に用意されたのは、人も研究室も活用できる客員教授のポスト。しかもティシュラー教授は、後に世界最多の会員を擁するアメリカ化学会の会長にもなり、世界的な医薬品大手企業であるメルク社で中興の祖と称えられる重鎮でもあった。彼のもとには連日、こちらが希望してもおいそれとは面会すらかなわぬような研究者や企業家が訪れる。その一人ひとりにティシュラー教授は、大村を同僚として紹介してくれたのである。

「留学期間は1年と少しでしたが、実に中身の濃い時間を過ごしました」と大村は振り返る。
このときの経験、また学生時代には国体代表に選ばれたクロスカントリースキーの練習にもなぞらえ、優れた成果を上げるにはレベルの高い境遇に身を置くことが肝要と考えた大村は、北里大学薬学部教授に就くと、内外から超一流の研究者を招くKMC※1セミナーを始める。またティシュラー教授が他界した翌年の1990年からは、門下からノーベル賞受賞者を輩出するなど優れた教育者でもあった教授を顕彰する意味もこめ、マックス・ティシュラー記念講演会※2も立ち上げている。

※1 KITASATO MICROBIAL CHEMISTRY

※2 2008年、学校法人北里研究所の発足を機に「Tishler-Omura講演会」へ改称


産学連携で実りある研究を

1972年、帰国要請が届いた。日本では潤沢な研究体制が見込めないと考えた大村は、新薬の共同研究を交渉材料に、パートナーとなってくれる企業探しに奔走する。ここでもティシュラー教授の助力により、大村はメルク社から、当時としては破格の研究費を確保できた。国際的な産学連携に先鞭をつけたともいえるこの体験は、やがて大きな意味を持つこととなる。

帰国した大村はさっそく研究室を立ち上げ、独自性が高く商品性も期待できる、動物薬の研究に注力した。全国各地で土壌サンプルを採取しては分析し、薬効につながる微生物を探していく。数えきれないほどの徒労を積み重ね、時には「スタウロスポリン※3」などの成果も得ながら研究は続いた。そして1979年、ついに大村は「ストレプトミセス・アベルメクチニウス」という特異な抗微生物活性を持つ化合物を作る放線菌を発見する。この菌は優れた抗寄生虫活性をもつ「エバーメクチン」と名付けた物質を生産することがメルク社の動物試験で確かめられた。この朗報はさっそく大村に伝えられ、世界中の牧畜業で愛用されるベストセラー駆虫薬「イベルメクチン」として結実。その薬効と快挙は日本のマスコミでも広く報じられた。同時に大村は、メルク社から長期に渡るロイヤリティ(特許料)収入を確保できたのである。

※3 1977年、ストレプトマイセス属の放線菌から発見された抗生物質。近年は抗がん活性でも注目されている

エバーメクチンを生産する放射菌。静岡県川奈の土壌から発見され、おおもとの菌は大村たちが今も大切に保管している

「The life and times of ivermectin-a success story」エバーメクチン発見25周年を記念し、総合学術誌「nature REVIEWS」は特集を組んだ(2004年)


ヒトの難病にも効いた「イベルメクチン」

「イベルメクチン」は、思いがけない力も併せ持っていた。アフリカ・中南米に蔓延していたオンコセルカ症※4の予防・治療に、画期的な薬効を示したのである。WHO(世界保健機関)は大村とメルク社に協力を仰ぎ、メクチザン(イベルメクチンの商品名)の無償供与を1988年から開始。それをもとにオンコセルカ症撲滅プログラムがスタートし、今も継続されている。「イベルメクチン」によって感染を免れた人数は、累計で1億2千万人以上にのぼる。なお同薬はその後、熱帯地方に多いリンパ系フィラリア症や沖縄地方に多い糞線虫症、疥癬などの治療薬としても広く使われるようになり、世界で毎年2億人の人々に投与されている。

※4 線虫が体内に入り込むことで発病し、やがては感染者を失明に至らせる風土病

イベルメクチンによってオンコセルカ症がほぼ撲滅されたガーナにて。子どもたちの間にも「メクチザン(イベルメクチンの商品名)」は知れ渡っていた(2004年)

ブルナキファソでのオンコセルカ症撲滅作戦プロジェクト会議(2005年)


研究のために経営を考えた

この時期、大学拡充のため人材も資産も傾注してきた社団法人北里研究所は、組織として疲弊し、経営が逼迫していた。研究室の閉鎖を通告された大村は、外部から研究費を導入し、職員と部屋を研究所から「借りる」独立採算方式で研究を続け、エバーメクチン発見へとつなげていた。

かつて北里柴三郎は、「人の役に立つ」実学を唱え、研究のかたわら日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を運営し、ワクチン増産にも力を注いだ。これを範とし、大村は監事から副所長、所長と歴任するに及び、北里研究所の存続を誓う。経営に専念するため副所長就任を機に教授職を辞し、「当初は貸借対照表の見方すらわからなかった(大村談)」にも関わらず、専門家の指導を直々に受け、経営立て直しの旗振り役となっていったのである。

経営の打開策として大村が発案したのは、第二病院の開設だった。エバーメクチンの特許料を原資に医療施設の状況なども熟考し、埼玉県北本市に適地を見出す。とはいえ大規模な総合病院ができるとなれば、地元の病院・診療所には死活問題となりかねない。案の定、地元医師会からの猛反対にさらされた。大村たち開設スタッフは、相互の連携による地域貢献を懸命に説いて回った。用地等の認可にあたっては、政治家や官僚を国会議事堂まで追いかけ「北里研究所は日本の宝」と訴え続けた。住民も嘆願署名運動を起こしてくれた。こうして元号が平成に変わった1989年、新病院は広大な敷地内にようやく産声を上げた。北里研究所メディカルセンター(KMC)病院の誕生である。

緑に囲まれた北里大学北里研究所メディカルセンター(KMC)病院。地域の災害拠点病院・臨床研修指定病院としても認定されている


経営とは「人を育てる」こと

KMC病院は、「絵のある病院」だ。公募等で収集したり、特許料で購入あるいは寄贈を受けた大小の作品が、待合室や通路に美術館も顔負けの様相で展示されている。産科や小児科の病棟では壁面自体に、大村が理事長を務める女子美術大学の学生による作品が描かれている。これは来院者の心情を癒そうと意図されたもの。ヒーリングアートなどという言葉もない時代から、KMC病院はそれを実践していた。さらに大村は、もう一つ大切な効果を挙げる。

「病院に併設した北里大学北里看護専門学校で学ぶ皆さんは、芸術に囲まれて勉強します。情操が養われ、人を想う心が育っていく。21世紀は心の時代だと思うのです」

病院経営に重なる、教育への想い。本来「経営」という言葉には「人を育てる」意がある、と大村は強調する。

「源氏物語に、光源氏が我が子である夕霧を他人に託す際、『この子の経営をあげてお願い申し上げます』というくだりがあります。病院を軌道に乗せる過程では職員一人ひとりが共通の目的を持ち、人間的にも大きく成長してくれました。経営を通じて人が育ち、人が社会に貢献する。そもそも経営とは、人材育成そのものでしょう」

絵画が並ぶKMC病院の通路。院内では市民コンサートなども催され、地域コミュニティの拠点として活用されている


「北里研究所」の名のもとで

2008年、大村は、社団法人北里研究所と学校法人北里学園の統合という大プロジェクトを北里学園理事長の柴忠義とともに成功させた。創立理念を見ても歴史を顧みても不可分といえる両者が物的・人的資源を結びあえば、高度で先進的かつ安定的な研究基盤が確立でき、「オール北里」としていっそうの発展が期待できる。私学の社会的使命が果たせる。そう考えたのである。

膨大な論議のすえ学校法人としての新しい法人像が見えてきたとき、大村はその名称に「北里研究所」の5文字を残すことを絶対条件に掲げた。ここでも「北里研究所は日本の宝」とこだわり続ける姿に、北里研究所の将来を悲観していた学内外の人々も、改めて耳を傾けてくれるようになった。研究所の先輩方も心強い応援を寄せてくれた。

「どうすれば社会の役に立つ研究が持続できるか。『研究の経営』は、私の生涯の課題です。何にしても一生懸命やっていると、必ず支えてくれる人が現れてくるものですね」

至誠天に通ず。感慨深げに回想する大村だった。

統合契約を締結し、学校法人北里学園(当時)の柴忠義理事長と固い握手を交わす(2008年)


改めて北里柴三郎の教えを胸に

北里柴三郎は、恩師であるローベルト・コッホ博士を生涯敬愛し続けた。自身の業績すべてをコッホ博士の指導の賜物と感謝し、ドイツから帰国後も決してその恩を忘れることはなかった。大村は柴三郎のその想いを自らも大切にした。100年を経ていまも続くローベルト・コッホ研究所との関係は、柴三郎の教えを実践してきた結果に他ならない。

ローベルト・コッホ研究所のバーガー所長とドイツ・ベルリンのコッホ博士の廟にて


科学技術の外交

「何か新しいものを見つけてやろうという革新の気風が北里にはあります」現在、大村を中心とするグループは『NEXTエバーメクチン』の取り組みを続けている。ブラジルのオズワルドクルズ財団との間で進められている共同研究は、南米特有の難病であるシャーガス病(ブラジル病)、リーシュマニア症、住血吸虫症の3つをターゲットに「人を救う薬」をめざし、研究者の交流も実現させた。国際交流から国際貢献へ。科学技術の外交を支えるのは、ここでもエバーメクチンの実績である。共同研究が結実し、商品化へ動き出す成果も生まれている。アブラムシ類の駆除に使用する農業用殺虫剤「ME5343」は、Meiji Seikaファルマとの共同研究で見出された化合物。国内の販売をMeiji Seikaファルマが、世界での発売をドイツの総合化学メーカーBASF社が行うことが決定している。


次の世代へ 産学協同

「北里らしい、北里にしかできないこと。微生物創薬は、その大切なアプローチのひとつ」そう語るのは、大村の後継者の一人である北里大学北里生命科学研究所教授の砂塚敏明だ。大村のコーディネートのもと、治療薬の創出を目指す。大村の視線が海外に向けられたように、「海外の製薬会社や研究者との共同研究も大切な取り組み」と砂塚は言う。

次の世代を担う砂塚が大村から託された研究のひとつが「マクロライド」。天然物化合物に有機合成化学をプラスすることで、抗炎症に特化した薬を生み出す。COPD(慢性閉塞性肺疾患)の治療薬としても期待されている。


すべては人間関係の構築から

大村は人との出会いを大切にしてきた。誰もがその交友範囲の広さに驚く。2001年にノーベル化学賞を受賞したバリー・シャープレス教授もその一人だ。大村が主催するマックス・ティシュラー記念講演会に招かれた後、教授の提唱する共同研究の打ち合わせのために再来日し、KMCセミナーで講演したのは、受賞の一ヶ月前の出来事であった。

2011年12月、大村は懐かしい旧友の訪問をうけた。山梨県立韮崎高等学校を1954年に卒業したときの同級生のお二人。大村の高校時代は「スポーツ万能で女子にもてたけれど、勉強はしなかったなあ」と笑う高柳昭吾さん(さいたま市で技術士事務所を経営)。東京に育ち、山梨に疎開していた内田弘保さん(元文化庁長官、学校法人二階堂学園常務理事)は「クラスは違ったが、なぜかウマがあった」と話す。お二人が口をそろえるのは大村が「当時とまったく変わっていない」ことだという。山梨大学に進んだときには、将来は学校の理科の教師、あるいは地元で村長にでもなるんだろうと高柳さんは思ったそうだ。高校3年になると「狂気にも似た集中力と根気」を発揮したという。研究者としての大村の原点がそこにあると内田さんは語る。

「私はね、お母様と奥さん、この二人がいなければ今の彼はないと断言するよ」言葉には出さずとも大村もきっとそう思っているはず。微笑みながらそう語る高柳さん。相槌をうちながら内田さんは、当時の山梨の環境を振り返り「厳しい風土だったからこそ、強く生きていかなければならない。その後の人生にも影響を与えていると思います」三人が過ごした高校時代をそんな言葉で結んでくれた。


「細菌学者のパストゥールは『幸運は準備された心を好む』と語っています。何事にも謙虚に努力し、道を切り拓いていきたいですね」研究者として、教育者としてさらには経営者として「終始一貫」ぶれることのない大村。笑顔で見つめるその先には、どんな原風景が広がっているのだろう。

高蜿コ吾さん(左)と内田弘保さん(右)。大村とは60年来の付き合いになる

研究に打ち込みすぎ体調を崩した反省から始めたゴルフ。かつてはシングルハンデの腕前


故郷の山梨でも、新たな「学びと芸術」の場を

大村が創設した基金をもとに1995年に発足した「山梨科学アカデミー」は、県ゆかりの大学教授や研究者が中心メンバー。これからの日本には地域の特色を備えた人材が育ち、多彩な考え方や技術が必要との視点から、情報交換や講演会、優れた研究の顕彰、小中高の児童・生徒への訪問講義など多彩な事業を展開している。さらに2007年には私財を投じ、女流作家の絵画が中心の全国でも珍しいコレクションをもつ韮崎大村美術館を開設し、翌年韮崎市へ寄贈した。

「人が山梨を創り、山梨が日本を創る。子どもと一緒に夢を語り、その実現をサポートしていきたい」と大村は想いを馳せている。

「子どもたちが面白いと思える科学」の場を提供するのも、山梨科学アカデミーの役割

八ヶ岳や富士山も一望できる、韮崎大村美術館

韮崎の実家を改装した「蛍雪寮」にて。寝食を共にしながら、広範なテーマを学生たちと語り合う場を定期的に設けている